穀雨南風⑬~リベラルの罠

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「真実は小さな声で語られる」

確かに今の政権が持つ体質には、目に余るものがある。国会の軽視、まともに説明しない、文書は破棄され、官僚も苦しい答弁に終始する、総理自らが「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と分断をあおるような言葉を発する。そして右派の応援団が繰り返すネットでの援護射撃の言葉は、ときに耳をふさぎたくなるほど攻撃的だ。

だからといって、リベラル側が同じように攻撃的な言葉を返す場面を目撃すると、違和感だけが残ってしまう。

強い言葉で政権を批判するツイートのなかには、事実誤認のものもあれば、本当のことかどうか、判然としないものもある。しかしそれは攻撃的であるがゆえにリツイートされやすく、そのなかに名の知れたジャーナリストや学者がいると複雑な思いを抱いてしまう。

その内容が事実かどうかよりも、あちら側の人間のツイートなのか、こちら側の人間のツイートなのか、のほうが大事だということなのだろうか。それではトランプ大統領のつぶやきなら何であれリツイートする一部の支持者と同じなってしまう。

ネット上で時に攻撃的に政権批判を繰り返している作家に尋ねたことがある。

「作品に色がつくことで、読者が減る不安はないですか」

するとその作家はこう答えた。「考えないわけでもないですが、でもそのほうが受けるし、フォロワーも増えるんです。フォロワーが増えれば、新作をだすとき宣伝もできるし」

ある新聞記者は最近、こう漏らした。

「最近、新聞も生き残りのために、ネットに力を入れていて、ぼくもネットの記事を書くことが増えたけど、アクセス数のランキングが出るのが嫌でね。読み応えのある内容とか、味のある文章とかじゃなくて、ホットなテーマかどうか、そして何より強いタイトルが読まれるんですよ。タイトルさえ強ければ、内容とかけ離れていても関係ないんです。このままでは書き手も受けばかり狙うようになるし、読者もますます読む力が失われていくと思います。ジレンマですよね」

もちろんテレビも例外ではない。

 むきだしで攻撃的な言葉、より感覚的な短い言葉のほうが、わかりやすいぶん「よく言ってくれた」という声が集りやすいし、同じ側にいるたくさんの人々がリツイートしてくれる。誰しも他者に承認されると心地いい。するとその話し手は期待に答えようと、ますます激しい言葉、評判になりそうな強い言葉を探すようになる。

 でもそれはリベラル側が決してはまってはいけない「罠」なのではないだろうか。

むき出しの本音が込められた攻撃的な言葉に誘い出されて、同じ土俵に乗ってしまえば深みや心からの共感は失われ、自らの居場所をさらに小さくしてしまうのではないだろうか。

 私自身は、人間の理性に対して懐疑的で、風雪に絶えてきた営みこそ大事にしたいと願っているという意味では保守の立場だと思っているし、自由と多様性を重んじ、寛容でありたいと願っているという意味ではリベラルな人間だと思っている。しかも保守とリベラルは対抗する概念でもないので少々やっかいなのだけれど、このコラムの文脈で言えばリベラルの立場と言ってもいい。

 リベラル側の言葉が劣勢に立つなかで、私自身もときに攻撃的な言葉の誘惑に駆られることがある。しかしそんなときには、ひとつの言葉を思い出すことにしている。

「真実は小さな声で語られる」

 今の時代にもそれが有効なのかどうか、わからない。ただ声高な物言いや大仰な表現を警戒する、自分の本能的な習性は変えられそうにない。だとすると今年も考え続けるしかないのだろう。リベラルはどんな言葉を持ち得るのだろうか、と。

【本稿はTBSキャスターの松原耕二さんが沖縄での経験や、本土で沖縄について考えたことを随時コラム形式で発信します】

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