「攻撃的な言葉」が優勢な時代に
これに対して、リベラル側の言葉はどう聞こえるだろう。
肌の色や性別で人を判断してはいけない。多様性のある社会を目指すべきだ。
アメリカの利益だけではなく、他国との協調を求めることが、最終的にアメリカの利益になるはずだ。自国優先の政策は間違っている。
トランプ支持者にとって、こうした言葉は学級委員の説教のように聞こえるだろう。いや、トランプ支持者だけではない。むき出しの本音に対して、理想やあるべき姿を説く言葉が今の時代にどれだけの力を持ち得るだろう。右肩上がりの時代、あるいは余裕がある時代には、理想の追求こそ社会を発展させると楽観的に信じることもできるかもしれない。しかし相手を思いやる余裕を失いつつある社会のなかでは、むき出しの本音の持つ力に比べて、単なるきれい事に成り下がってしまうのだ。
それはアメリカだけのことではない。
日本でも似たような状況が生まれつつあるように思える。リベラル側が繰り出す言葉は、明らかに劣勢に立たされている。
その状況をなんとか挽回しようとするには、
1)攻撃的な言葉には、攻撃的な言葉を返すこと。
2)言葉を選び抜き、柔らかくとも伝わる言葉を探すこと。
この2つしかないのではないだろうか。
前回のコラムで筑紫哲也さんと沖縄について書いたが、そのとき筑紫さんが沖縄をめぐって書いた文章を読み直して感じたことがある。
筑紫さんが書いていたころと沖縄が置かれた状況はほとんど改善されていない、いや、それどころかさらに悪くなっているということだ。
そしてもうひとつは、筑紫さんの文章が柔らかいことだ。
沖縄が置かれた状況に怒りを感じているのは明らかなのに、禁欲的なまでに攻撃的な言葉を避けているように感じられる。
そしてそれは書き言葉だけではない。
「ニュース23」でのしゃべるコラム『多事争論』を文字にしたものを読んでも、直接的に政権に批判を加えているような日はほとんどない。やはり柔らかい言葉を選びながら、民主主義のあり方など原則に立ち返ることで、政権の問題点を聴く人に考えさせるような語りになっている。
そうしたスタイルだったからこそ、オウム事件をめぐって「TBSは死んだ」と、いつになく強い言葉を選択したとき、そこに込められた危機感が視聴者に伝わったのだろう。
つまり、筑紫さんがとっていたのは
2)の「言葉を選び抜き、柔らかくとも伝わる言葉を探すこと」だと言ってもいい。
しかしこれには難点がある。
言葉を発する側は、繊細な言語能力が求められるし、言葉選びにかなりの労力を払わなければならない。さらに受け手の側もそれなりのリテラシーを持っていないと、その行間にある意味や、深い味わいを理解することはできないだろう。
そしてもうひとつは、ネット上ではおそらくインパクトに欠けることだ。
だからなのだろうか。いま起きているのは
1) の「攻撃的な言葉には、攻撃的な言葉を返すこと」のように思える。