司法が認めた沖縄戦の実態①

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沖縄戦

ここで沖縄戦についておさらいをしておきたい。

沖縄を戦場として行われたアジア・太平洋戦争末期における日米両軍の戦闘。民間人の戦没者数は正確な統計資料があるわけではないが、15万人に上ると言われている。

沖縄県が編纂した沖縄県史は、住民被害について「歴史上かつてない、筆舌に尽くしがたい地獄絵さながらの出来事に遭遇し、多大な肉体的、精神的、物的被害をこうむった。米軍の近代殺戮兵器による非戦闘員たる住民への非人道のきわみである無差別爆撃によるものであったが、日本軍によっても直接間接的に被害を受けた結果でもあった」と記している。 

司法が認めた金城恵美子さんの証言 

「山の形を見ただけで『集団自決』の現場を思い出して苦しくなる」

原告の一人、金城恵美子さんが陳述書に残した言葉だ。金城さんは渡嘉敷島で起こった「集団自決」の生存者だ。当時、14歳だった。 

那覇地裁での一審判決の後 右端が金城恵美子さん

渡嘉敷島は慶良間諸島の島で、那覇から西に30キロにある細長い島。美しいサンゴの海で‘ケラマブルー’と呼ばれ、海外から多くの観光客が訪れる。この美しい小さな島で、「集団自決」が起こった。

渡嘉敷島の集団自決が行われた場所に建てられた碑

「集団自決」について、渡嘉敷村ホームページに次のように記されている。 

「​1945年3月27日、米軍が渡嘉敷島に上陸、占領した。日本軍の特攻部隊と住民は山の中に逃げ込んだ。パニック状態に陥った人々は避難の場所を失い、島北部の北山(ニシヤマと呼ぶ)に追い詰められた。そして3月28日、『集団自決』が起こった。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で親兄弟の首を絞めたり、首を吊ったり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていった」

「米軍が上陸直前又は直後に、警備隊長は『住民は軍と共に行動し、敵に降伏することなく癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ』と自決命令を下した」

「『集団自決』とみなされる公簿上の戦没者数は合計330人」

渡嘉敷島 この海をアメリカ軍の軍艦が埋め尽くした

金城さんは1931年(昭和6年)10月13日に渡嘉敷村字阿波連で生まれた。沖縄戦当時、家族は祖父新垣長吉(80歳位)、父長英(49歳)、母ウタ(47歳)、姉房子(長女17歳)、弟長次郎(長男11歳)、妹勝子(三女9歳)、弟長太郎(次男6歳)、妹ツル子(四女9歳)、弟長興(三男1歳)、そして恵美子さん本人(次女1 4歳)の10人の大家族。瓦葺きの大きな家で暮らしていたが、日本軍人が家の8畳間の一番座で生活していた。父親は沖縄防衛隊として現地召集された。

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