3月23日、米軍の空襲が始まり、金城さん一家は阿波連部落の裏山の防空壕に避難する。その後、米軍の空襲や艦砲射撃が激しくなり、25日、祖父が家を離れようとしなかったため、祖父を残して、金城さんを含む子ども7人と母ウタは渡嘉敷部落後方の山中に移動。27日、同じ阿波連部落民からどうせ死ぬなら故郷で死のうと誘われ、阿波連に向う。しかし、途中で駐在巡査に「阿波連部落もすでに敵が上陸している」と追い返され、元の山中に戻る。そして28日、「皆、北山に集まるように」と島民に指示があり、移動していく人たちに金城さん一家もついて行った。200人くらいが集まっていたという。
金城さんは「集団自決」が始まったときにその場にいた。陳述書で次のように証言する。
「集まった人々は口々に『天皇陛下万歳』を叫びながら自決が始まりました。あちらこちらで手榴弾の爆発音とともに悲鳴が聞こえ、騒然となりました。手榴弾がなかった私たち家族も巻き込まれました」
さらに続ける。
「陸軍の赤松隊長の命令で駐在巡査が『住民はひとりたりとも敵の捕虜になってはいけない、皆、北山に集まるように』と指示し、各家族単位に兵隊が手榴弾を配り、『敵が来たらこれで戦い、捕虜になるのならこれで自決せよ』と命令が下った」
「赤松隊長」とは陸軍海上挺進戦隊第3戦隊の赤松嘉次戦隊長のことだ。赤松隊長の「集団自決」の関与については、「集団自決」裁判(2005年提訴、2011年判決のいわゆる大江・岩波裁判)で事実認定されている。
金城さんは、しかし集団自決を生き延びる。そのくだりも陳述書に書いている。
「『「集団自決」』が始まった時、私の隣にいた年上の女の人が「防衛隊のお父さんがいる所に行こう」と言うので、急に父が懐かしくなり、その人について行きました。私を連れ出してくれた人のことを私は知りませんでしたが、父が防衛隊に行っていることを知っていた人だろうと思います。この人は、自決が始まることを知っていて、自分だけが出て行くのは怪しまれると思って、私を誘ったのだと思います。私がついて行った所はさらに山奥で、父の姿は見えませんでした」
家族10人のうち、母、長男、三女、次男、四女、三男の6人が亡くなった。生き残ったのは長女房子と金城さんの2人だけ。金城さんはけがもなく無事だった。長女の房子は重傷を負った。
金城さんは房子さんの被害を証言する。
「長女房子は『集団自決』が始まったとき、後ろからいきなり誰かに首を絞められて意識不明になり、背中から胸に突き抜ける刺し傷を負ったと言います。傷は背中から胸にかけて突き抜け、傷は化膿し、絶えず注射器のようなもので膿を吸い出し、自力では呼吸困難なため酸素吸入で生きている状態でした。その後、この胸の重い傷害が肺結核となり、肉体的にも精神的にも苦痛にさいなまれ、仕事にもつけず療養生活を余儀なくされました」。
房子は「集団自決」から61年経った2006年6月26日、療養生活を続ける中で息を引き取ったという。
認められた戦争PTSDの被害
「集団自決」で無傷だった金城さんだが、精神的被害を受けた。戦争PTSDだ。 金城さんは書いている。
「『集団自決』があった渡嘉敷島でなくても、どこかで山の形を見ただけで当時の『集団自決』の現場を思い出して苦しくなります。『集団自決』のことを語ると眠れなくなります。沖縄の上空を飛ぶ米軍のジェット機が落ちてこないかと不安になります」
精神科の蟻塚亮二医師は「『集団自決』の阿鼻叫喚の現場をみた後、不眠、フラッシュバック、恐怖と戦慄の蘇り、不安、苦悩に今もさいなまれていて、沖縄戦に由来する心的外傷後ストレス障害(PTSD)である」と診断した。
トラウマ(心の傷)の記憶は脳の中に刻み込まれる。消えることはない。年月が経って、すっかり忘れたころに、家族の死や親しい人との別離などをきっかけに、脳に中に閉ざされていた記憶が現れることがある。これを心的外傷後ストレス障害(PTSD)と呼ぶ。
金城さんの診断書は裁判所に提出され、裁判所はこの診断書の内容も事実だと認めている。
次回は、裁判をたたかった瑞慶山茂弁護士に、なぜ、裁判を起こしたのか、判決をどう受け止めているのかを、筆者とこの裁判との関りとともに伝える。
【本稿は『InFact』からの転載です】