首里城の地下司令部壕が問い掛ける戦後の断層

この記事の執筆者

首里城火災を機に脚光を浴びているのが、首里城地下に張り巡らされた旧日本軍の第32軍司令部壕だ。沖縄戦を指揮した日本陸軍の拠点施設で、深さ約30㍍、総延長約1000㍍に及ぶ。5つの坑道で結ばれていたと記録される国内最大規模の戦跡だが、損傷が激しく詳細は分かっていない。

2020年3月に保存・公開を求める市民グループが活動を開始。県内世論の盛り上がりを受け県は4月、首里城復興基本方針にIT技術を用いた壕内部の公開検討を明記。さらに12月には、保存公開を前提に議論する検討委員会を年度内に立ち上げる方針を示した。

司令部壕公開に向けた動きに熱い視線を注ぐのは、第32軍司令官だった牛島満中将の孫の牛島貞満さん(67)=東京都世田谷区=だ。

「首里城と司令部壕を一体的に捉え、歴史を考える場とすることには大きな意義があると思います」

琉球王国の文化の象徴である首里城と、先の戦争で首里城が焼失した要因に連なる司令部壕。地上と地下に共存する「歴史遺産」を再建、保存・公開することで、観光で沖縄を訪れた人々に文化や平和について考えてもらえる絶好の機会になる、と牛島さんは考えている。

「日本軍の無謀な南部撤退によって日本軍、米軍、住民の三者が混在する戦場がつくられ、多くの住民が犠牲になりました。沖縄戦の核心ともいえるこの作戦を決定した司令部壕は極めて重要な意味をもつ戦跡なのです」

牛島さんが、長年決心がつかなかった沖縄訪問に踏み切ったのは1994年。小学校教諭として平和教育に携わり、否応なしに祖父の足跡と向き合うことになった。95年以降、毎年のように沖縄に通い、沖縄戦に関する調査を続ける牛島さんが最もこだわってきたのが「南部撤退」だ。

牛島司令官は首里の司令部壕で降伏せず、本島南部に撤退する作戦を選んだ。この結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は大幅に膨らんだ。極限状態に陥った兵士が壕から住民を追い出したり、殺害したりすることも起きた。沖縄戦で語り継がれる悲劇が南部撤退によって凝縮して発生したともいわれる。

牛島さんは司令部壕の様子を確認したことがある。

1990~98年まで知事を務めた大田昌秀県政は、司令部壕公開に向け試掘調査に着手していた。牛島さんは97年8月、壕内の見学を申し出たところ県の担当者立会いのもと、入坑を許された。

この記事の執筆者