首里城の地下司令部壕が問い掛ける戦後の断層

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保存・公開に必要な巨額の事業費

首里城の守礼門近くの入り口から梯子や階段を使って地下深く潜り、坑道に立ったとき、牛島さんは観光客でにぎわう地上の喧騒とは対照的な静寂に包まれた。壕の内部には、鉄かぶとやつるはし、軍靴などの遺品も整理して置かれていた。公開準備が整えば、沖縄戦や南部撤退の歴史的関心が深まる、と牛島さんは確信した。

しかし、大田県政の退陣後に政策転換が図られ、一般公開に向けた調査や整備は凍結された。公開が見送られたと聞いた当時、「がく然とした」と振り返る牛島さんはこう嘆く。

「県の調査は全坑道約1000mの28%、300㍍しか進んでいない段階で凍結されました。その後は保守点検と崩落防止のための措置しかとられていません。この20年間、司令部壕の構造や機能の調査研究は進まないまま、戦時中の壕内部を知る戦争体験者もわずかしか残らない状況になってしまいました。この停滞は大きな痛手です」

首里城の火災後、玉城デニー県政は県内世論に後押しされる形で、保存公開に向けた検討委設置のほか、司令部壕に関する文献や証言を収集し、21年度に史実調査に乗り出す方針も打ち出している。ただ、公開には巨額の事業費が必要になるため先行きは見通せない。牛島さんは言う。

「国内最大の地上戦が行われた司令部の戦跡調査は、首里城再建と同様に国が費用を負担すべきです。少なくとも南部撤退の際、司令部壕に取り残された傷病兵の遺骨収集と未調査部分の埋蔵文化財調査は国が行う責任があります」

牛島さんは沖縄の市民グループに協力し、講演などで折に触れて司令部壕の様子などを伝え、「沖縄の住民の立場にたった保存公開が必要」と訴えてきた。一方で「県外の人こそ、本土決戦の時間稼ぎのために行われた沖縄戦の真の姿を学ぶべき」だと強調する。

「第32軍は沖縄ではなく、本土を守る使命を負わされた部隊でした。守られた側、犠牲を強いた側である本土の人々こそが、沖縄戦でどんなことが起きたのかを知らなければならない。沖縄戦をめぐる沖縄と本土の認識ギャップは戦後75年を過ぎてもまだ続いています」

太平洋戦争末期、米軍は沖縄攻略後に本土上陸作戦を計画していた。もし日本がポツダム宣言を受け入れず8月15日に敗戦を迎えていなければ、九州や関東地方でも沖縄戦と同じような民間人の4人に1人が亡くなる戦闘が繰り広げられていた可能性があった。牛島さんは言う。

「いまここにいる私たちの何割かはこの世に存在しなかったかもしれない。75年前の沖縄戦は遠い沖縄で起きた戦闘ではなく、自分たちの存在にかかわる出来事だったということを学ばなければなりません」

【本稿はAERA 2021年1月11日号を加筆転載しました】

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