沖縄で暮らしていたとき、沖縄の人たちの影は県外出身の自分よりも濃いように映った。沖縄の人たちは、足裏が地面としっかりつながっているようにも感じられた。
なぜだろう、とずっと考えていた。
もちろん気のせいなのだが、こう考えると腑に落ちた。
先祖代々この土地にずっと根をおろして生きてきた人たちと、そうでないよそ者の自分との違いが、ある種の「引け目」となってそんな錯覚を生んだのかもしれない、と。
しかし沖縄には、しっかり根を張っている移住者も少なくない。私が感じた「引け目」は何が原因だったのだろう。
沖縄で「先祖」というとき沖縄戦を抜きには語れない。沖縄戦を生き抜いた祖母や祖父、あるいは曽祖父や曾祖母がいたから、今自分がこうして存在していられる。その先祖の誰ひとり欠けても、自分はこの世に生を受けられなかった。そんな意識が、口にするかどうかはともかく、私が出会った多くの沖縄の人たちには根づいていた。
言うまでもなく、これは沖縄や沖縄戦だけに当てはまるものではない。戦争に限定しても、日中戦争と太平洋戦争を合わせた日本人犠牲者は民間人約80万人を含む約310万人に及ぶ。しかし、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦、とりわけ軍民が混在した状態で激戦地となった沖縄本島南部では、一家全員が亡くなる悲劇も決して稀ではなかった。
沖縄戦はなぜおきたのか。本島南部が住民を巻き込む激戦地となる要因を招いた日本軍の「南部撤退」はどんな経緯で判断されたのか。
そうしたことを少しずつ学ぶにつれ、沖縄戦を越えて生をつないできた沖縄の人に対し、戦争や戦闘を強いた側の日本本土で生を受けた私は「負い目」を感じずにはいられなくなった。こんな考え方は間違っているのかもしれない。だが私にとってはそれが、沖縄で「引け目」を感じる要因の一つだった、と思う。
沖縄には今も、多くの戦没者の遺骨が未回収のまま残る。戦死したのは沖縄にルーツのある人だけではない。沖縄戦には日本全国だけでなく、台湾や朝鮮半島などからも兵士や軍属として集められ、亡くなった方たちがいる。もちろん「敵」だった米軍兵士の遺骨も眠る。
そうした遺骨を分け隔てなく敬意をもって発掘し、弔ってきたのが、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(67)だ。活動歴はもう40年近くになる。具志堅さんらが、沖縄県庁前で3月1日から始めたハンガーストライキが6日に終了した。