「ナイチャーは嘘をつく」論争への緊急応答

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「ナイチャー」という言葉がどういう意味で使われているのか? 何故ウチナーンチュの方々は、わざわざ「ナイチャー」という集合名詞を使うのか? それをよく考えてから発言しなければならないし、本当に判らなければ質問して議論すれば良い。それを契機に、ヤマトが琉球・沖縄に行ってきたことの歴史を学び、現在も続く構造的沖縄差別を解決しようという方向に、自分のアイデンティティを形成していけば良いのである。

そのような最低限の言論のマナーを守らないと、足下をすくわれるはずだ。

今怖れるべきなのは、一人歩きした表面的・感情的な発言が、国による印象操作や沖縄分断政策に与することだ。「沖縄の人が本土の人を逆差別している」との暴論を流布し、沖縄を孤立させることで得をするのは、沖縄に犠牲を集中させたい国・権力者の側に他ならない。自分のアイデンティティが「沖縄に寄り添う」ことにあると自負する人は、なおさら自分の発言が意図せぬ暴力性を帯びることに気を払うべきだ。

SNS上での会話は、一対一の閉ざされたコミュニケーションではなく、全世界に筒抜けになっている。つまり、自分の発言が印象操作に利用されるというだけでなく、自分が印象操作の直接の担い手にもなり得るのである。

「沖縄を理解する者」「沖縄を研究する者」を標榜して発言しようとしている人は、自分の発言が、特に沖縄のことをあまり知らない人・これから調べようとしている人にどう受け止められるか、重々考えねばならないと思う。「自分の発言が、これから沖縄について学び、調べる人の沖縄観の土台を作りうる」ということの恐ろしさを想像すべきだ。自分が、権力側に有利な沖縄像を広める役割を担いうるかも知れないのだから。

SNSを用いた運動の道具として使われるハッシュタグやバズワードも諸刃の剣である。実際、私も「#沖縄の声を運んでください」というハッシュタグを用いて「遺骨で基地を作るな!緊急アクション!」を広めようとしているが、沖縄ヘイトを行うユーザーが恣意的にこのハッシュタグを使い、運動を混乱させようとしている。

誰しも簡単で印象的な言葉に飛びつく傾向を持つし、自分もそれを利用して運動を広げようとしているが、悪意ある集団も同じ戦略を用いていることを自覚し、冷静な議論の場を意識的に作り出すことで抵抗していかなければならないだろう。

歴史的背景が濃い単語がハッシュタグ的に使われ、プロパガンダとして利用されると、特に危険なことが起きる。ここではルワンダ虐殺(ジェノサイド)を巡るLynne Tirrellの議論(英語論文 Genocidal Language Games)を引き合いに出し、考えてみたい。

1994年4月6日に始まったルワンダ虐殺では、100日で80万人以上が犠牲になり、ルワンダ国際刑事裁判所によって「ジェノサイド」と認定されている。なぜこれほどの犠牲が生み出されたのか。虐殺時に広められた言語表現に着目して分析したのが、Tirrell論文である。

この虐殺は一般的にフツ族とツチ族との対立として説明される。そもそも、この分類自体、当時ルワンダの宗主国であったベルギーが分割統治を行うため、恣意的に押しつけたものである。ベルギーは少数派のツチ族に権力を独占させることで、多数派のフツ族との対立を作り出し、ルワンダ民衆が一体となって独立闘争を起こさないよう工作した。現在日本政府が一部の沖縄業者の利権を優遇し、沖縄内部での対立を作り出しているのと全く同じ戦略である。

植民地時代に押しつけられた分断は、ルワンダ独立後も解消されることはなかった。独立後に権力を掌握したフツ族は、ツチ族への迫害を行い、多数のツチ族難民が発生した。深まるツチ族・フツ族の対立が、1994年4月6日の大統領暗殺事件を機に爆発し、虐殺に発展したのである。

Tirrellは論文冒頭で精神医学者・Naasson Munyandamutsaの「言葉が我が国を殺した」との言葉を引用している。ルワンダ虐殺は、ラジオを通したプロパガンダの恐ろしさで知られているが、Tirrellはその中でも、特にinzoka (現地の言葉で「蛇」)という言葉の果たした効力に着目した。

ルワンダでは、伝統的に、蛇の頭を切り落とすのが少年として誇らしいことだとされてきた。蛇を見れば、問答無用で殺さなければならない。これは、ツチ族・フツ族の別を問わず、国中で、長い歴史を通し、ずっと引き継がれてきた日常生活の規範だったそうだ。

「蛇を見れば殺す」が、疑問を差し挟む余地もないほど当然で習慣的な義務になっている社会において、「ツチ族は蛇だ」とのプロパガンダが広げられたが最後、「ツチ族を見れば問答無用で殺す」ことが当然の義務となり、英雄的行為として正当化されたのである。こうして普通の住民が大量殺戮者にされていき、ジェノサイドの加害者になっていった(この事例を、沖縄戦中に流された「鬼畜米英」というプロパガンダ用語の機能と比較して考えてみて欲しい)。

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