「ナイチャーは嘘をつく」論争への緊急応答

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歴史的に強い価値・規範概念と結びつけられた言葉(例えば、「~は汚い」「~を見たら逃げろ」のような言い伝えを無批判に信じ込んでいないか、振り返ってみて欲しい)がプロパガンダとして一人歩きしたとき、最悪ジェノサイドまで引き起こしうる暴力性を持つ。それがTirrellの結論である。

これを踏まえて「ナイチャーは嘘をつく」論争をもう一度考えてみよう。

確かに「ナイチャー」と一括りにし、「嘘をつく」という価値概念を結びつける、ウチナーンチュの方々の表現にも、全く問題はないとは言えない。しかし、そこで「ウチナーンチュはナイチャーを差別する」と感情的に言い返したくなる人は、自分も同じ型式の表現を使っていることに気づいて欲しい。

私たちがTirrellの論文から引き出すべき教訓は、「歴史的意味づけの濃い集合名詞を使うべきではない」というものではないはずだ。むしろ、そのような集合名詞を使った表現に出会った時、「その表現には、どのような背景があるのか?」「相手は何故その表現を使っているのか?」「その表現を使う意義と危険性は何か?」などを冷静に分析すべきだ、ということだ。

言葉だけをハッシュタグ的に一人歩きさせるのではなく、一語一語丁寧に解きほぐすこと。そうすることによって、危険な言葉を、無毒化は無理でも解毒することくらい出来るだろう(いや、無毒化できると信じ込む方が危険だ)。

Tirrell論文のタイトルにあるlanguage gamesは、単なる「言葉遊び」ではない。言語哲学者J. L. Austinが指摘したとおり、言葉の持つ機能は言論の域に留まらない。たった一言が、人を動かし、命令し、導き、取引を成立させ、新たな価値・規範を作り出す力を持つのである。

最近新聞を読んでいると、言葉の機能と、その恐ろしさについて論じた記事によく出会う。例えば5月2日付け朝日新聞の社説は、コピーライターの小竹海広さんらの屋外広告「#この指とめよう」を紹介し、SNS上の言葉を凶器にしないよう訴えた。

5月7日付け朝日新聞の「天声人語」は、「ナッジ」と呼ばれる、それとなく行動変容を動かす言葉やデザインについて論じている。その行動変容が人々の生活を良くするものなら良いが、ちょっとした言葉遣いで暴力的な行動が惹起される怖れもある。「ナッジ」が諸刃の剣であることを、常に頭に入れておきたい。

現在、本部塩川港のベルトコンベア問題、沖縄県のコロナや聖火リレー対応など、国の沖縄分断政策に利用されそうな問題が出て来ている。私が対峙している「遺骨土砂問題」についても、「無能な県が悪い」かのような印象操作がなされないか、心底不安だ。5月14日という知事の最終判断日が迫り、皆焦っている時だからこそ、自分も含め、冷静な言葉遣いを心がけたい。

最後に、沖縄や日本社会を取り巻く問題に関連し、特に今気をつけるべき言葉をリストアップして、本稿のまとめにしたい。

  • 「遺骨土砂問題」…この問題の本質は何か、理論化出来ていないと、「遺骨が混じった土砂など全国各地にある」「那覇空港の埋め立て土砂にもその土砂を使っただろう」という批判に耐えられない。そもそも、この問題は、国が憲法で定められた地方自治の原則を破って辺野古新基地建設を強行するから生じたものである、という前提を忘れてはいけない。
  • 「私権の制限」…沖縄の土砂採取業者が県を批判する際に用いる「私権」とは、鉱業権、つまり下位法が規定する経済的利益である。対して、自民党の憲法改悪を批判する際に用いる「私権」とは、個人の自由権、つまり憲法が定める基本的人権の一つである。両者を混同すると、土砂採取を規制しようとする沖縄県が抑圧者のように演出されうるので、要注意。
  • 「トーンポリシング」「言葉狩り」…「ナイチャーは嘘をつく」論争で、そのような表現に反発するヤマトンチュをウチナーンチュが批判したとき、「トーンポリシングだ」と抗議する人がいるかも知れないが、筋違いである。対等な言論の場での批判と、言論弾圧とは明確に区別すべきだ。特に、ヤマトンチュがマジョリティである言論空間で、ヤマトンチュがウチナーンチュに「そのような表現をするな」と言うとき、どちらが「トーンポリシング」をしているのか、考え直すべきだろう。ちなみに、4月27日、政府は「『従軍慰安婦』という用語を用いることは誤解を招く恐れがある」とする答弁書を閣議決定したが、権力者がこのように言葉の使い方に制限を掛けることこそ「トーンポリシング」と言うべきである。
  • 「遺骨のDNA鑑定」…沖縄と遺骨を巡っては、2つの問題が同時進行している。一つは遺骨の染み込んだ土砂を用いて基地を作ることの問題、もう一つは人類学者が琉球人の墓から盗骨してヤマトの大学に持ち帰り、未だ返還していない問題である。現在研究者は、その遺骨を研究目的でDNA鑑定することを理由に返還を拒否しており、具志堅隆松氏はそれを批判している。「戦没者遺骨のDNA鑑定を求めておいて、研究者による遺骨のDNA鑑定を批判するのは、ダブルスタンダードだ」などと言いがかりを付ける人が出て来そうで怖い。遺族が自分の肉親の遺骨かどうか確定させるためにDNA鑑定を行うのと、遺族が別にいる遺骨を盗んでおいて、研究者の利己的な好奇心でDNA鑑定を行うのとは、全く別の問題だ。
  • 「国家安全保障上重要な土地」…前の記事でも指摘したが、この言葉が何を指すのかは政権の独断で決められるので、注視が不可欠である。「安全保障」の対象はあくまで「国家(もはや「国体」と言うべきだろう)」、つまり「国民」ではない。例えば、ワクチン接種会場にこの言葉が当てはめられたとき、国全体が戒厳令下に置かれるのではないか。それくらい危機感を持って接したい言葉である。
  • 「沖縄の祖国復帰」…5月15日が近いので、触れておきたい。確かに沖縄は祖国復帰運動を行い、1972年5月15日に復帰を果たしたが、本当に沖縄にとって日本は「祖国」なのか、一体沖縄は「復帰」したのか、今一度問い返さねばならないだろう。

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