あなたの慰霊の日

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ジリジリと日が差し、日傘もさせない、水も飲めない。雨に打たれ、傘なんかなく、家も追われ、空腹で食べ物がない。瓦礫をかきわけ死体を踏み付け、誰が敵か味方かわからない状態が容赦なく襲う。眠れない。明日はどこへ逃げるか。

明日を生き延びたとしても、愛する家族を大切な人を目の前で失う。弔うことさえもできず手を離し、亡骸を残して逃げる。生か死か。この二択しかない現実。生きることと逃げることに必死だったはず。

想像でしか出来ない。考えられる範囲の想像なんて比べものにもならない地獄だっただろう。

平和の礎に刻まれた名前を柔らかな指がなぞる。「慰霊の日」の前後には、多くの県民が訪れる。言葉をかける。会いたいよ、ごめんね、苦しかったね、痛かったね、今はゆっくりしているか、私たちは頑張ってるよ。

沢山の悲しみと苦しみと消せない記憶を手繰り寄せ、戦死した家族を大切な人を思い、涙を落とす。

ばーちゃんは逃げて生き延びた。兵士として戦ったじーちゃんは母を糸満のガマ付近で亡くした。幼い頃よく糸満の摩文仁が丘に連れて行ってくれた。親族を全て戦争で失い、数少ない情報と記憶をつなぎ、遠い親戚をひたすら訪ね歩き、家系図を作った。すがる思いでユタにお願いし、母が最後に行き着いたであろうとされる場所。そこで手を合わせ呪文のようなうちなーぐちで沢山話かけ泣いていた。唯一じーちゃんが泣く姿を見た場所。多くの人が逃げきれず追い詰められた場所。月日は流れ、ばーちゃんが亡くなり、じーちゃんも8年前に亡くなった。

父に聞いても、じーちゃんは戦争体験をあまり多くは語らなかったそうだ。

ばーちゃんも墓場まで持っていくと母に生前話していたそうだ。

今となれば戦争体験をもっと聞いておくべきだった。後悔しか残らない。

私の断片的な記憶の中の沖縄戦を生き延びたじーちゃんとばーちゃんの姿。

戦争は怖いんだよ。じーちゃんの一言に込められた重みを考え、慰霊の日に手を合わせる。今の私達は生き延びた方々と、命を落とした方々の沖縄戦の証だ。

今も続く沖縄戦への祈りと悲しみと大切な人を想う、想像して手を合わせる6月23日。

想像しよう。あなたの慰霊の日。

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