この日のテーマは「戦争をどう語り継ぐか」。
特に珍しいテーマではない。戦争を体験した人たちが次々とこの世を去る中で、切実な問題として繰り返されてきた問いだ。保阪さんにとっても、対談などで繰り返し語ってきたテーマに違いない。しかし2021年8月という巡り合わせは、保阪さんにこれまでにない特別な思いを抱かせていた。
日本人にとって、夏は様々な感情を沸き立てられる季節と言ってもいい。沖縄慰霊の日、広島、長崎の原爆の日、そして終戦の日。重い記憶を次々と突きつけられるのだ。保阪さんは8月になると、それまで1年間に書いたものを読み返し、自らの初心を確認するという。二度と戦争を繰り返さないために、昭和史を探究してきたという思いだ。
ただ今年の8月はそれだけではなかった。この1年で、保阪さんの盟友たちが次々とこの世を去った。去年12月に作詞家のなかにし礼さん、彼は満州からの壮絶な引き揚げを体験し、戦争の非人間性を小説として描いた。そして今年1月に半藤一利さん、4月には立花隆さんが亡くなる。知の巨人と呼ばれた立花さんも晩年、戦争の教訓が本当に生かされているのかという危機感を繰り返し語っていた。
彼らが終戦を迎えた時の年齢は
半藤さん15歳
なかにしさん6歳
保阪さん5歳
立花さん5歳
共通するのは、少年時代に戦争を体験していることだ。
鉄砲をかついで戦場に行く「戦場体験」を持つ世代が数少なくなり、戦争を子どものころ経験した世代も次々と亡くなっていく。身近な盟友たちの死は、戦争を語り継いでいかなければという保阪さんの責任感をさらに強めただけでなく、その方法論を強く意識させることになる。
保阪さんはこの夏に抱いた思いを、自分と立花さんとの違いから話し始めた。
「普通は『半藤は』『保阪は』とか、個人が主語になってものを見るけど、立花さんはまず『ヒトは』『人類は』と考えて、そのあとに自分はどう見るかが来る。だから戦争との向き合い方も、感性で見るというよりは理論的に考えるんだよね」
立花さんと保阪さんの生まれは、半年違いだ。わずか半年とはいえ、早く生まれた保阪さんは国民学校に、遅く生まれた立花さんは新たな教育制度の下で小学校に通った。
「立花さんはこう言うんだ。自分たちは民主主義1年生として、まるで1年前が徳川時代のように、まったく違う時代のように習ってきたんだよな。でも何のことはない。地続きできょうときのうの違いはないんだよ。本当は潜んでいる問題と向き合って解決し、克服したうえで次の時代を理解すべきなのに、でも全部否定して、あれはひどい時代だったと。大切な問題と向き合わないために、徳川時代だよと切り離してるんじゃないか」
そしてもうひとつ、強調していたことあるという。
「いずれ戦争を体験した人がこの世からいなくなる。最後のひとりがいなくなった時、この国は大丈夫だろうか。戦争の教訓を学んでそれを社会の共通の理解にしていかなければいけないんじゃないか、と心配していましたね」
保阪さんはその思いに共感すると語ったうえで、こう続けた。
「私たちの国は過去の戦争で多くの過ちをおかしたけれど、そのことをどういう風に次の時代に生かしていくのか。それが半藤さん、なかにしさん、立花さん3人の共通の思いでもありましたね」
その3人を失った最初の夏であるこの8月を、保阪さんは「歴史を継承していく新たな出発点にしたい」と、その強い思いを語った。
「当事者が自らの戦争体験を語る『一次的継承』、当事者に聞き取って語り継ぐ『二次的継承』がある。そしてもうひとつが『三次的継承』、これは体験を自分と切り離し、客体化、歴史化する。その作業がこれからは大事になると思うんです」
「具体的にどういうことでしょう?」
私が身体を乗り出すと、保阪さんは噛みしめるような口調で続けた。
「日本の歴史を調べてみると、江戸時代はただの1回も戦争をしていない。それなのに近代に入ると10年おきに戦争をしている。富国強兵、戦争をすることで国が栄えた、もっと厳密に見ると、戦争を国家の事業にしてしまった。戦争に勝つことによって、賠償金が取れる、領土が増えるという形で一等国になっていった。戦争を、利益を得る手段にしてしまった。でも江戸時代のことを考えると、それが本当に国家の正しい道だったかのかと思うんですね。そんなふうに戦争を大きな形で理解していく、全体像をつかむ作業をしていかなくてはいけない。当事者が語る一次的継承では、部分しか語ってこなかった面があると思う。しかしこれからは二次的継承、特に三次的継承の時代に入ったと感じますね」