サンフランシスコ講和条約と戦後補償
栗原氏によれば、「日本は1952年にサンフランシスコ講和条約が発効することで独立を回復した。同条約は、アメリカやイギリスなど日本が戦った連合国との間で、相互に補償請求権を放棄した。これにより、日本政府がアメリカに補償を求めることはできなくなった。」したがって、日本政府が戦争被害者への補償を負うことになる。だが、日本政府は、講和条約の発効を機に軍人恩給は復活させたが、民間人への補償は「復活させなかった」。
この点に関する栗原氏の指摘は重要だ。太平洋戦争開戦4カ月後、米爆撃機が東京、横浜、名古屋、神戸などを空襲、日本側に死者約90人、負傷者500人を出した。これを機に、日本政府は戦時災害保護法を成立させ、軍人・軍属よりも手厚い補償と援護を民間人戦争被害者に対して行うよう定める。にもかかわらず、戦後の政府は、国に雇用されていなかったという理屈で民間の戦争被害者を補償対象から外した。
そもそも、1944年夏にサイパンなどマリアナ諸島が陥落した時点で、日本の敗戦は必至だった。マリアナ諸島は米大型爆撃機B29の発進拠点となり、日本本土への空襲が激化する。1945年2月、近衛文麿は早期の終戦を昭和天皇に上奏している。だが、昭和天皇は米軍をどこかで叩き、その戦果をもって講和を模索する「一撃講和論」に固執した。
そうして、1945年3月末から米軍が沖縄各島に上陸すると、台湾防衛に戦力の3割を割いていた現地の日本軍は、法律に反した民間人の現地徴発を行うも、「一撃」に失敗して消耗戦を展開し、兵士よりもはるかに多くの民間人の死者を出す。昭和天皇の判断が、空襲や沖縄戦で莫大な数の民間人が殺されることにつながった。
日本政府は戦後、沖縄の民間人戦争被害者に対する補償を行ったが、これは、サンフランシスコ講和条約で日本から切り離された沖縄と、日本とのつながりを維持する狙いがあった。そのため、占領米軍は約一年半にわたって、沖縄の人々が補償を受け取るのを妨害している。また、政府は戦争に協力したという名目で、沖縄の民間人を軍人・軍属として扱うことで補償を実現している。したがって、遺族が補償金を受け取った死者の中には、日本兵に殺された人々もいたが、彼らが日本兵と一緒に靖国神社にまつられるという倒錯が起きた。