故翁長雄志氏の生き様―翁長氏はいかにして「オール沖縄」知事となったか―

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翁長知事急逝直後の県民大会

 台風が迫る2018年8月11日、沖縄那覇市の奥武山公園で、「土砂投入を許さない!ジュゴン・サンゴを守り、辺野古新基地建設断念を求める8・11県民大会」(辺野古に新基地を造らせないオール沖縄会議主催)が行われた。

 朝は青空が広がっていたが、午前11時に始まった大会の冒頭、8日に急逝した翁長雄志知事への黙とうを参加者全員で捧げた直後から、激しい雨が降り出した。公園周辺の道路には何台もの街宣車が終結し、大音量で軍歌を流しながら参加者に罵詈雑言を浴びせていた。だが、雨の中増え続ける参加者は7万人に達し、会場に入りきらない人間を収容するために、幼い子供から高齢者までが傘をたたんで身を寄せ合い、一時間以上もずぶ濡れで立つ姿があちこちで見られた。

 この県民大会で目を引いたのが、参加者の年齢層の幅広さだ。沖縄の反基地運動の参加者は、1945~72年の米軍の占領に抵抗した「復帰前世代」が中心で、年々高齢化している。だが、この日の県民大会では、さまざまな年代の家族や友人たちが連れ立って参加していた。

 幅広い年代の県民の足を県民大会に向かわせたのは、翁長知事の急逝にほかならない。参加者は黒い服を着る、喪章や黒いリボンをつけるなど、思い思いに翁長知事への追悼の意を示していた。翁長知事の息子の翁長雄治那覇市議や、城間幹子那覇市長、謝花喜一郎副知事などの登壇者は口々に故人の思い出を語り、翁長知事の遺志を引き継ぐことを誓った。県民大会は実質的に、翁長知事の追悼集会となったのだ。

 2014年11月の沖縄知事選で「辺野古新基地建設阻止」を訴え、現職の仲井眞弘多氏に約10万票の大差をつけて当選した翁長知事の死に、数多くの県民が涙している。しかしながら、翁長氏が県民の間で強い輝きを放つ存在となったのは、意外と最近のことだ。

 きっかけは、2012年10月に実施された、米海兵隊普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)へのMV-22輸送機、通称オスプレイの配備だった。当時、那覇市長だった翁長氏は、民主党政権を批判し、県民の先頭に立って、開発段階で事故が多発したオスプレイの配備撤回を訴えた。自民党・安倍晋三政権が復活してまもない2013年1月には、翁長氏は生粋の自民党政治家であるにもかかわらず、沖縄県の41市町村長(翁長氏含む)、41市町村議会議長、超党派の県議ら約140人を集めて上京、日比谷公園から銀座までオスプレイ配備撤回のデモ行進を行った。こうして翁長氏は、県民のために「生活の闘い」をする政治家として衆目に周知されていく。

保守政治家一家のサラブレッド

翁長氏は1950年、朝鮮戦争が勃発して米軍が沖縄の基地を大幅に拡大した年に生まれた。父が真和志(現・那覇)市長、兄が西銘順治県政で副知事を務めたという保守政治家一家で育つ。12歳のとき、将来は那覇市長になると級友たちの前で宣言したという。名門の那覇高校を卒業すると、米軍占領下の沖縄を離れて東京の法政大学法学部に進んだ。

 沖縄の日本復帰を求める日本政府は、費用を負担して沖縄の若者を本土の大学に進学させる留学制度を設けており、翁長氏は最初から本土への国費留学を目指して那覇高校に進んだようだ。沖縄と日本本土を行き来するのにパスポートが必要だった時代である。地元ではサラブレットだった翁長氏だが、東京では下宿先を探しても「琉球人お断り」でなかなか見つからないなど、差別を経験することになった。

 翁長氏が法政大学に入ったとき、同大学の夜間部で学んでいたのが、後に第二次安倍政権の官房長官として翁長知事と対立する菅義偉氏だ。菅氏は、高校を卒業して秋田県から集団就職で上京し、働きながら法政大学に通っていた。地元に帰れば前途洋々の翁長氏と、己頼みで将来を切り開こうとする菅氏の学生生活は、対照的なものだったろう。

 東京で沖縄の日本復帰を迎えた翁長氏は、卒業すると地元に戻り、兄が経営する小さな土建会社をへて1985年、34歳で那覇市議会議員に初当選する。沖縄自民党の役職を歴任し、沖縄県議会議員に転じると、二期目で自民党沖縄県連の幹事長を務めるまでになった。ちなみに翁長氏は、生涯を通して一度も落選したことがない。

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