故翁長雄志氏の生き様―翁長氏はいかにして「オール沖縄」知事となったか―

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情の田中派から「ハートがない」福田派へ

こうして、あらゆる手段を用いて大田三選を阻止し、稲嶺県政を誕生させた翁長氏に対し、小渕政権は礼をもって応えた。小渕首相は1999年4月末、翌年の主要国首脳会議の会場の一つを沖縄にすることを発表する。また同年末には、沖縄県側から普天間飛行場は名護市辺野古への移設が最適だと表明した直後、10年で1000億円の北部振興予算確保を約束した。さらには閣議決定で、普天間代替施設の軍民共用の受け入れと使用期限の検討、地位協定の改善を決定している。

 だが思わぬ出来事によって、軌道に乗った国と沖縄の信頼関係は途絶えることになった。2000年4月の小渕氏の急逝である。後任の森喜朗政権は、発足まもなく防衛庁長官が15年使用期限は困難だと発言したり、沖縄で起きた米兵犯罪について森首相が「政府として罰することはできない」と発言するなど、沖縄側の心情にあまりにも鈍感だった。ちなみにこの年、翁長知事は幼少の頃の夢だった那覇市長に当選している。

 続く小泉純一郎政権は、2004年の沖縄国際大学ヘリ墜落事件をきっかけに、進行中の在日米軍再編協議の中に「沖縄の負担軽減」を盛り込んだが、沖縄県と名護市の頭越しに2005年、普天間移設計画を辺野古「海上」から「沿岸」へと変更した。しかも同時に、軍民共用や使用期限などの条件をなかったことにする。

 翁長氏は強い憤りをおさえられなかった。だが彼は2006年4月、胃ガンで胃の全摘手術をすることになる。密かに温めていた普天間飛行場の硫黄島移転案も断念せざるをえなかった。

 稲嶺知事も新たな移設計画に最後まで抗ったが、同じ4月に移設先の名護市が国の説得で新移設案を受け入れると、国との「基本確認書」にサインするしかなかった。名護市が新移設計画を了承した背景には、米軍再編協議の要だった守屋武昌防衛次官が、受け入れねば北部振興予算を打ち切ると恫喝したことがあった。稲嶺氏はこの年の知事選には出馬せず、仲井眞弘多氏が稲嶺県政の継承を掲げて当選する。仲井眞新知事は、第一次安倍政権に新移設計画の修正を求めたが、守屋次官と小泉前首相に阻まれて果たせなかった。

 翁長氏が10kg痩せながらも病を克服した2007年、第一次安倍政権下の文部科学省が、高校教科書検定で沖縄戦における「集団自決」の日本軍強制の記述を、削除・修正させた事実が報道される。記述復活を求める県民大会で、翁長氏は「平和を希求する思いは保革を問わない」と訴えた。時間があれば沖縄に行けと田中角栄に言われて育った経世会政治家たちの情の政治から、福田派・清和会の政治家たちに自民党の本流が移って以降の、翁長氏いわく「ハートのない」政治は、自民党ひと筋で生きてきた翁長氏に深い失望と不信感を与えた。

 2010年11月の知事選で仲井眞知事の選対本部長を務めた翁長氏は、公約に普天間県外移設を掲げさせることで再選に導いた。前年に誕生した民主党政権の鳩山由紀夫首相は、一度は普天間の移設先を「最低でも県外」と表明したが、まもなく前言撤回した。だがパンドラの箱が開いたことで、沖縄の世論はもはや普天間の県内移設を是としなかったのだ。

しかし仲井眞知事は、第二次安倍政権のかつてないほどの強硬姿勢のもとで2013年末、辺野古沿岸部の埋め立て申請を承認した。自民党も民主党も、沖縄の保守政治家さえも翁長氏と沖縄県民を裏切ったのである。守るものがなくなった翁長氏は、ついに立つことを決意した。2014年11月の知事選に、自民党を割って革新勢力と手をたずさえて出馬することを決めたのだ。あとは読者がよく知る通りである。

 翁長氏の急逝によって、知事選は予定を繰り上げて9月30日に実施されることとなった。8月14日、自民党と公明党が推す知事候補である佐喜真淳宜野湾市長は、市役所内で立ったまま記者会見を開き、翁長知事への追悼と尊敬の意を表明しながらも、翁長県政のせいで「国との関係などにおいて、争いが絶えず、ひずみや分断が生まれた」と批判した。佐喜真市長が、国と県との争いは県民が「決して望むものではない」とくり返し強調したことが、若年層を中心とした県民の実感であることもまた事実だった。

 翁長氏の死によって、彼が耐えてきた沖縄の歴史の重みは過去のものとして眠りにつかされるのか。それとも次世代に継承されるのか。結果は、翁長氏の遺志を継ぐことを掲げた衆議院議員の玉城デニー氏の大勝となる。沖縄県民は、「生活の闘い」をする知事を引き続き支持したのだ。

【参考文献】松原耕二『反骨―翁長家三代と沖縄のいま』朝日新聞出版、2016年

※本稿は、2018年8月17日にWeb雑誌『論座』に掲載された記事を一部加筆修正したものです。

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