グアムの道路が整備されている理由
海岸と並行に伸びた、広いアスファルトの道路が、垂直に降り注ぐ太陽光で白く輝いている。アメリカのグアム島は、兵庫県淡路島とほぼ同じ大きさ。沖縄県の約4分の1の面積しかない。車を飛ばせば2、3時間で、青と白のコントラストが美しい海を横目に、島をふちどる舗装された道路を一周できる。
グアムでの運転は国際ライセンスがいらないが、左ハンドル・右通行なので、レンタカーを借りる日本人は多くない。プライベートビーチつきのホテルとショッピングモールが集中する、中部のタモン地区で過ごす日本人を尻目に、自撮り棒を持って南部へドライブにくり出すのは、自国も左ハンドルの韓国人だ。
左ハンドルの国でも、中国の観光客はあまり見かけない。安全保障上の理由から、米政府が、入国する中国人の数を規制しているのだという。というのも、グアムにはアンダーソン米空軍基地とアプラ米海軍基地があるからだ。小さな島の主要部分を網羅する舗装道路は、実のところ、観光客のためのものではない。グアム島の約3割を占拠する米軍が、島内移動のためにつくったのである。
同じく沖縄の主要道路もまた、米軍がつくったものだ。沖縄戦で本島に上陸した米軍は、日本軍の飛行場を次々と制圧。嘉手納米空軍飛行場などの米軍基地として整備・拡張すると、基地と基地をつなぐ「軍道1号線」を建設する。那覇から始まって沖縄本島を南北に通る、現在の国道58号線である。
重なりあうグアムと沖縄の歴史
グアムは米領土の中で唯一、戦争で外国軍に占領された場所だ。1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した5時間後、グアム攻撃を開始。31カ月にわたってこの島を占領した。 砂糖価格暴落による「ソテツ地獄」を機に、南洋諸島に移住した琉球諸島のさとうきび小作人たちが、日本占領下のグアムで働いた。琉球諸島から来た人々の中には、米軍がグアムを奪還する際、地上戦に巻き込まれて死んだ者も少なくない。
米軍の戦死者約1400人に対し、日本軍の戦死者は約2万人という激戦でグアムを奪還した米軍は、将来の必要のためという理由で、この島の軍事要塞化にとりかかる。最大時には、島の面積の約6割が米軍基地になった。
グアムの先住民であるチャモロ人は、漁業や農業を営む自給自足の生活を送っていたが、米軍に土地を取り上げられたうえ、米軍が持ち込んだ核兵器や化学兵器で海も汚され、米軍の雇用に依存し、缶詰のスパムなどを食べる生活に変わる。これもまた、沖縄戦以降の27年間、米軍に占領された沖縄と重なって見える歴史だ。
天然資源も生産手段も持たないグアム政府は、1960年代に入り、米軍による部外者立入禁止令が解除されると、観光産業に活路を見いだそうとする。折しも、グアムの戦闘で死んだ日本軍兵士の遺族が、慰霊のためにグアムを訪れるようになった。グアム政府の協力で、「兼高かおる世界の旅」という日本の人気テレビ番組が、何度もグアムを紹介した効果か、新婚旅行にグアムを訪れる日本人も増えた。
こうして、大勢の短期滞在者を受け入れる、日系の大型リゾートホテルがタモン地区に集中する、リゾート地グアムができあがった。このプロセスも、1972年に復帰した後の沖縄とよく似ている。