故翁長雄志氏の生き様―翁長氏はいかにして「オール沖縄」知事となったか―

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大田県政の天敵

 翁長氏が県議となった1992年には、革新派の大田昌秀氏が知事で、自民党は県議会では野党だった。その上、1993年には宮澤喜一内閣の不信任可決と衆議院解散、武村正義らに続く小沢一郎らの自民党離党をへて、非自民連立内閣が成立した影響で、沖縄でも自民党離党者が相次いだ。自民党は1994年に自社さ連立政権で与党に返り咲き、1996年には橋本龍太郎政権の発足で権力の座を奪還する。自民逆境の時代を耐えた翁長氏が県連幹事長となったのも、同じ頃である。

 だが、1995年の少女暴行事件、大田知事の軍用地代理署名拒否をきっかけとした、日米両政府のSACO(沖縄に関する特別行動委員会)発足を契機に、橋本政権は大田知事との信頼関係構築に努めた。そのため、政府と沖縄県のパイプ役を務めたのは、自民党沖縄県連ではなく、県庁職員で労働組合の幹部を歴任してきた吉元政矩副知事だった。翁長氏からすれば面白くなかっただろう。

 翁長氏は、大田県政の実務を一手に取り仕切る吉元副知事の追い落としを図った。1997年の副知事再任人事を否決しようとしたのだ。1996年に日米両政府が合意した普天間飛行場の県内移設に前向きな吉元副知事を、評価していた橋本政権は、自民党沖縄県連による吉元氏再任否決の動きを止めようとする。しかし県議会の自民党は、本議会決議の際に退出した。実はこのとき、SACOで決まった那覇軍港の県内移設を吉元氏が認めたとして、議会与党の共産党も吉元氏の再任否決へと動いていた。吉元氏の再任はわずかな差で否決された。

 吉元氏なき大田県政では、読谷村長として米軍基地の整理縮小をなしとげた山内徳信が出納長として知事を補佐した。その影響で、既存の基地への統合なら県内移設もやむなし、という吉元氏の現実路線から、普天間飛行場の県外移設を求める革新路線へと大田知事は方針を転換する。翁長氏は県議会で、大田知事の「変節」を厳しく追及した。

 しかも翁長氏は、1998年11月の知事選で三期目を目指して出馬した大田知事の対抗馬に、沖縄経済界の重鎮である稲嶺恵一氏を担ぎ出した。1998年7月に首相に就任した小渕恵三氏は、稲嶺氏の父親で自民党参議院議員だった一郎氏と若い頃から親しく、その息子の恵一氏とも以前から個人的な親交があった。また小渕内閣の官房長官となった野中広務氏は、翁長氏の県議一期目に彼の前で土下座して、米軍基地を置かせてくれと言ったことで、翁長氏が最も尊敬する本土の政治家の一人だった。

 翁長氏は、小渕氏と野中氏の日本政府なら、交渉が可能だと信じたのだろう。彼は防衛庁の守屋武昌氏を説得した上で、稲嶺氏の公約に、普天間の県内移設の条件として代替施設の15年使用期限と軍民共用を盛り込ませた。他方、大田県政の失策で沖縄が不況に陥ったという「県政不況」批判を展開し、若者などの浮動票を取り込んだ。当時、アジア通貨危機のあおりを日本も受けており、沖縄経済にも影を落としていたのだ。翁長氏はさらに、小渕政権の自自公連立の成立よりも早く、公明党に共闘を持ちかけて実現させる。

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