ペリーは何を語ったのか~「元米国防長官・沖縄への旅」を読み解く【その1】

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ペリーの告白・四つの焦点

NHK教育テレビで放映されたETV特集『ペリーの告白~元米国防長官・沖縄への旅』(1118日放送)は、日本の安全保障や沖縄基地問題を考える上で、大変に興味深く、また示唆に富む番組であった。筆者(宮城)も取材協力者として少しばかり番組の作成に関わったが、本稿ではこの番組においてペリーは何を語ったのか、その意味するところについて考察してみたい。

ウィリアム・ペリーはクリントン政権の国防長官として(在任199497年)、第一次北朝鮮核危機や日米安保再定義、そして米軍普天間基地の返還合意に携わった。いずれもその後の日本の政治外交、そして沖縄をとりまく状況を大きく左右した出来事である。

今回の番組におけるペリーの「告白」の中で、筆者が特に注目に値すると考えるのは以下の四つをめぐる証言であった。すなわち、①第一次北朝鮮核危機(199394年)をめぐる日米の対応について、②橋本龍太郎政権下の電撃的な決断とされた普天間基地返還合意(19964月)の内情について、③普天間基地の「代替施設」について、④当時沖縄県知事であった大田昌秀とペリーとの関係について、である。以下、この四つのポイントについて順次、見ていこう。

 

焦点その① 第一次北朝鮮核危機をめぐって

 

まず、第一次北朝鮮核危機についてである。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核開発をめぐる問題は、最近では先月1129日に同国が米本土まで届くICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射に成功したと発表するなど、深刻さの度合いを深めているが、その発端は1993年から94年にかけて生じた第一次北朝鮮核危機であった。

このときの危機では、北朝鮮が水面下で核開発を進めていることが発覚し、これを阻止しようとクリントン米政権は外交的圧力をかける傍らで、北朝鮮の核施設に対する攻撃も検討した。

一方では北朝鮮の当局者が、「ソウルはここからそれほど遠くない。もし戦争が勃発すればソウルは火の海になるだろう」(943月)と発言するなど、極度に緊張が高まった。同時代の日本においてはあまり認識されなかったが、それは「第二次世界大戦後の日本が直面した安全保障上の最大の危機」(田中均・元外務審議官)であった。

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