この危機が進行中の1994年4月、ペリーは米国防長官として羽田空港に降り立つ。危機への対応を協議するため、日本や韓国を訪れたのであった。ペリーは、「国防長官としての私の責務は外交交渉を軍事的な観点から『威圧的』にすることによって側面支援し、それを成功に導くことだと考えていた」と振り返る(ウィリアム・ペリー『核なき世界を求めて』106頁)。具体的には、在韓米軍に数十万人規模で兵力を増派することなどが検討されていた。
このような米軍の動きに対して、国連主導の経済制裁に対してすら「宣戦布告と見なす」と警告していた北朝鮮が電撃的な先制攻撃を仕掛けてくる可能性も排除できなかった。仮に北朝鮮が電撃的な韓国侵攻を開始した場合、それを食い止めるため在日米軍基地をフル稼働させる必要がある。しかし米政府にとっての不安材料は、果たして日本政府の全面的支持が得られるかという点であった。
「基地使用の許可はイエス、しかし…」
当時、日本では非自民連立によって首相の座に就いた細川護煕が、政治資金疑惑が浮上したことを理由に退陣表明し、副総理兼外相の羽田孜が後継の首相に就任することがようやく決まるという政治の空白期の最中であった。ペリーは次期首相の羽田との会談に臨む。
今回の番組においてペリーは、この会談で羽田に対して、朝鮮半島有事となった際には在日米軍基地を使用することを説明し、日本側の意思確認を求めたと語った。ペリーの意図は次のようなものであった。「戦争の際に(在日米軍)基地を使えば北朝鮮空軍の標的になる可能性が高いからです。それを説明して(日本側に)ノーという機会を与えるのが適切だと考えました」「(日本側からの)基地の使用許可の答えはイエスでした。しかしこのことは公の場で議論したくないと具体的に頼まれました」。
ペリーはこの日本側の反応について、つづけて次のように言う。「(日本側が日本の)世論の反応を心配したことは間違いありません。防衛庁長官や首相は軍事問題を重視しているように見えませんでした。高い優先順位をおいておらず私にとって憂慮すべきことでした」。
こうしたペリーの嘆息を聞けば、当時の羽田政権首脳の危機認識が、いかにも不十分であったと見えるであろう。しかし、ことはそれほど単純なものではなかった。
【敬称略】(以下、次回につづく)