沖縄戦を知らない若者に歴史をどう引き継ぐか(上)

この記事の執筆者

中城~首里防衛戦の開始

 米軍が、沖縄戦で渡具知海岸から上陸したのは、約1.6キロメートル先にある、嘉手納と読谷の日本軍飛行場を確保するためだった。米軍は、日本軍の反撃や抵抗を受けることなく飛行場をただちに占領。壊されていた滑走路の修理も、妨害されることなく終える。二つの飛行場は、日本本土への空襲の出撃拠点となる。

 沖縄戦における日本軍の目的は、米軍に勝つことではなかった。長期戦で米軍を消耗させ、本土上陸を遅らせることだった。沖縄中の住民を強制動員し、それでも兵力不足を補えない日本軍は、司令部のある首里とその周辺の丘陵地帯に主な兵力を集中。米軍の進軍を阻止せず、迎え撃つこともせず、米軍が接近するまで待って抵抗する作戦をとる。

 日本軍に足止めされることなく、米軍の一部は読谷から島内を東に横切り、翌2日には中城湾一帯を見渡せる高台を確保した。沖縄島の東海岸沿いには、琉球王国以前から、首里城を起点に中城を通って勝連城へと向かう街道があった。つまり、中城一帯は首里に南下するための要所なのだ。

 街道の一部は現在でも残り、琉球大学の裏から中城城址まで歩ける石畳の「ハンタ道」として整備されている。海岸沿いの高台をひたすら歩き、南上原をぬけて北上原の山の中に入っていくと、「キシマコノ嶷」と呼ばれる地元住民の聖地がある。沖縄戦の際、日本軍はこの場所の地形を利用して、機関銃などを備えつけ、壕やトンネルをつくり、監視哨を設けた。

 ゼミの学生を連れてキシマコノ嶷まで登った際、読谷に上陸した米軍がたった一日で中城まで到達し、5日にはここにひそむ150人の日本軍と戦闘になったと言うと、学生は驚いたようだった。「一体どんな移動手段で?」「徒歩と戦車」。

 嘉手納基地や普天間飛行場などの米軍基地を大きく迂回しながら、島内を移動しなければいけない戦後の沖縄県民には、直線距離で島を東西に横切るなど想像もつかないのだ。

 なおも首をひねる学生に、日本軍が首里防衛に徹したため、中城までは米軍の進軍が容易だったことも説明すると、一人がぽつりとつぶやいた。「日本軍は兵士を捨て駒に……」

 米軍の沖縄島上陸の目的である飛行場を真っ先に放棄して、首里とその周辺に立てこもり、時間稼ぎのために戦闘を長引かせるとは、そういうことである。約3倍の兵力の米軍一個大隊から攻撃されたキシマコノ嶷の日本軍は壊滅した。

 石畳の道を外れ、草木が生い茂る中を進むと、小道はやがて行き止まりになる。崖の上にあるキシマコノ嶷から中城湾を見下ろしながら、学生が「住民はどうなったんですか?」とたずねた。沖縄戦での中城村民の死者は人口の31.7%、5643人にのぼった。米軍の首里南下を食い止めるため、日本軍は、天然の要衝である丘陵の頂上から接近する米軍を攻撃。そこにあった住民の集落は、「醜さの極致」といわれる戦場と化したのだ。

この記事の執筆者