沖縄戦を知らない若者に歴史をどう引き継ぐか(上)

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嘉数~米軍を圧倒した唯一の戦場

 宜野湾市の嘉数高台公園は、普天間飛行場を一望できることで有名である。公園には常時、展望台から普天間飛行場を撮影する人たちが訪れている。

 公園の一角の慰霊塔には、衆議院議員として活躍した自民党政治家、野中広務氏の遺骨が納められている。「ゆかりの人たちが沖縄を忘れないために」本人が遺言したという。野中氏は、橋本龍太郎内閣のとき自民党幹事長代理として、また小渕恵三内閣のときには官房長官・沖縄開発庁長官として、普天間飛行場の移設問題に関わった人物だ。

 彼と沖縄との関わりは1962年からだ。京都府園部町長として、パスポートを手に米軍占領下の沖縄を訪ね、沖縄戦にて嘉数の戦いで命を落とした京都府出身の日本軍兵士を慰霊する、「京都の塔」を現在の公園の場所に建てたのが縁となった。

 嘉数高台公園がある場所は、京都出身の約3500人含め約6万人の日本兵が投入され、約8割が死傷者となった沖縄戦最大の激戦地の一つである。首里に南下する米軍をくいとめるため、日本軍は嘉数の丘陵一帯に洞窟を掘って壕をつくり、それらを地下トンネルでつないだ陣地を構築。山腹の前方と後方の斜面に陣地をこしらえ、大砲や機関銃を壕の中にすえた。

 米軍は、日本軍の約3倍の兵力でもって中城方面から嘉数に攻め寄せ、戦車砲や装甲車の火炎放射器で先制攻撃をしかける。だが、日本軍は、山の後方斜面や山中の塹壕に身を隠しながら頂上から反撃。嘉数の戦いで米軍が被った損害は、沖縄戦を通じて最も大きいとされる。

 米軍は4月8日から16日間、嘉数から先に進めなかった。日本人が退却したことで、後を追って浦添へと南下していく。ちなみに、米軍が日本本土への空襲の拠点として普天間飛行場の建設を開始するのは、沖縄戦の組織的戦闘が終了する1週間前の6月17日である。

 住民の29.8%、3982人がこの戦いに巻き込まれて亡くなった宜野湾市は、嘉数高台公園内に残るトーチカ(大砲や機関銃の設置場所)や壕を保存している。しかし、この公園の最大の見どころは、なんといっても展望台だろう。

 普天間飛行場の撮影に使われることの多い展望台の3階からは、北東に中城、南西に浦添の前田高地がよく見える。ここで学生たちに、沖縄戦における米軍の進軍ルートを説明したとき、学生は初めて、日本軍が捨て身の戦闘を繰り広げながら、中城、嘉数、浦添、首里、さらにその南方へと後退していったことが想像できたという。

 この場所を定期的に見に来るのは、平和学習中の日本人だけではない。教官に連れられた海兵隊の新入隊員たちも、毎年訪れる。偶然にも一度、ほぼ10代のあどけない顔の新入隊員たちを前に、屈強なベテラン海兵隊員が熱弁をふるう場に出くわしたことがある。「我々は、ここ沖縄を血であがなった。だから、我々は、沖縄に留まり続けなければいけない。」海風に乗って聞こえてくる言葉は、沖縄戦の被害をいたむ静謐な公園の雰囲気とは真逆だった。

※本稿は、2020年5月31日にWeb雑誌『論座』に掲載された記事を一部加筆修正したものです。

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