沖縄戦を知らない若者に歴史をどう引き継ぐか(下)

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首里から摩文仁へ~県民の4人に1人が亡くなった理由

沖縄戦は、県民の4人に1人が亡くなった戦争だ。沖縄で育つ子供たちは義務教育の間、平和学習を通じてこの事実をしかと教えられる。しかし、なぜ沖縄出身の日本軍兵士・軍属2万8228人、現地徴用された戦闘参加者5万5246人、一般住民3万8754人、合わせて12万人超もの沖縄県民が亡くなるに至ったのか、若者にはピンとこない。

 実は、沖縄県民の戦没者数を月別に見ると、全体の約4割にあたる4万6833人が1945年6月に亡くなっている。ついで多い5月でも2万4636人。6月の死者数は突出している。

 他方、日本軍の戦没者数を月別に見ると、全体の7割弱にあたる6万4000人が、5月から始まる首里の第一・第二防衛線の戦いで死んでいる。沖縄県民と日本軍の死者数のピークに、ずれがあるのはなぜか。それは、首里一帯の戦いを通じて、沖縄戦で日本軍が勝てる見込みはないことを悟った、日本軍の司令官と参謀たちが、南部に後退して戦闘を長引かせる作戦をとったからだ。

 5月22日から、首里を守ると見せかけて、日本軍の摩文仁への密かな退却が始まる。ところが米軍は、日本軍が最後まで首里にとどまって戦うものと信じており、首里に猛攻を浴びせながら進軍する。砲兵隊や艦砲射撃が首里に撃ち込んだ砲弾は、推定20万発。さらに空襲で450トンもの爆弾が投下され、何千発もの迫撃砲弾も命中した。首里は完全に廃墟と化した。

 首里城の石積みの城壁にも米軍艦砲の35センチ砲弾が撃ち込まれ、形を留めたのはわずか2、3カ所。城内には砕け散った石が積もり、砲弾の穴だらけになった広場の外郭だけがかろうじて識別できる、変わり果てた姿となった。那覇市、真和志村、首里市の住民の死者数は合わせて1万9845人にものぼる。首里市だけ見ても、人口の42.1%にあたる7388人が亡くなった。

 軍事戦略的な観点から見ると、米軍にとって首里陥落はまったく重要ではなかった。米軍が沖縄を占領する目的は、日本本土を攻撃する飛行場の確保だったからである。米軍は4月1日の上陸と同時に、読谷や嘉手納の飛行場を確保。さらに、伊江島を占領して滑走路を建設していた。

 戦闘から逃れようと南へ南へ落ちのびる沖縄の住民を追うように、米軍を引き込んで戦おうと退却する日本軍は、もはや軍隊の体をなしていなかった。兵士たちは、毎日1000人ずつ餓死した。後ろから米軍の攻撃を受けても、防備もなく、部隊間の連携もなかった。

 6月、日本軍民と米軍が南部へと押し寄せた。米軍には、軍民の見分けがつかなかった。ゲリラ戦の指示を受けた日本軍兵士は、民間人の服に着替えて非戦闘員にまぎれこんだからだ。海、空、陸のどこにも逃げ場のない南端の摩文仁で、日本軍民はともに米軍の砲撃と爆撃と火炎にさられる。摩文仁村の住民の死亡率は、63.3%にも達した。

 沖縄の組織的戦闘の終了は、1945年6月23日とされる。だが、日本軍は首里防衛戦の勝敗が決した時点で、統率された組織として戦うことができなくなっていた。単なる兵の集団となった日本軍は、6月の初めから中旬までの間、月に平均1000人戦死する。19日には約2000人、20日には3000人、そして21日には4000人以上死んだといわれる。

語りによる平和学習の特徴

 平和学習で「県民の4人に1人が亡くなった」沖縄戦という事実は知っていても、そこでとまっているのがいまの沖縄の若者の実情だろう。だが、それは若者のせいではない。

 語りによる平和学習では、語り手の体験と心情が話の中心となる。いわば点の語りである。点から線へ、線から面へとつなげることが難しいのが、個人の記憶に支えられた語りの特徴である。

 同時代の人間であれば、個人の記憶を互いに共有することは難しくない。多くの人々に共通する体験は、個人の語りに面の広がりを持たせることを可能にする。1911年に東京で生まれた芸術家、岡本太郎は1957年、米軍が占領する沖縄を訪ね、南部の戦跡を巡ったときの印象をこう書き残している。

 「戦場を一眼に見おろす、いちだんと高い荒い岩山の上、あそこで司令官、牛島中将が最後に自決したのだなどと聞くと、とたんにムラムラする。

 情況はすべて知らされず、無数の島民や兵隊達をかりたて、一発射てば直ちに千発のお返しがくるという、手も足も出ない圧倒的な敵に対して、なすこともなく退き、追われて来た。最南端の海岸ぷちの洞窟にたてこもり、なお大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、鼠のように死んで行った。」

 岡本太郎は、沖縄戦を生きぬいた友人から摩文仁の戦いの説明を聞いて、この文章をつづった。30代で徴兵されて現役初年兵として中国戦線に出征し、日本敗戦後は捕虜生活を送った岡本は、本人いわく「旧日本軍隊の救い難い愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱」を、骨身にしみて知っていたのだ。

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