具志堅隆松さんと迎える6・23 (6) 慰霊の日の主役は誰か

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首相は追悼式での挨拶で「沖縄戦において、戦場に斃れられた御霊、戦禍に遭われ亡くなられた御霊に、謹んで哀悼の誠を捧げます」と語ったが、戦没者のご遺骨が混じる土砂で基地建設の埋め立てをしようとしている人がよく言えたものだと思う。具志堅さんは「首相や防衛大臣は戦没者に対して謝罪すべきだ」と声を強めて語っていたが、遺骨土砂問題の謝罪と南部土砂の採取計画を撤回しないのなら、首相・防衛大臣・厚生労働大臣(戦没者遺骨収集を所管する)らはご遺族に合わせる顔がないはずだ。

今回の慰霊の日は、改めて沖縄と日本政府との決裂をはっきり示すものとなった。追悼式での挨拶に「我が国を取り巻く安全保障環境は、戦後最も厳しく、複雑な状況にあります」との一節を加えた首相は、沖縄における軍備増強を正当化しようと意図していたかも知れないが、ノーモア沖縄戦命どぅ宝の会が平和祈念公園内で行ったシール投票では、沖縄へのミサイル配備について、午後3時過ぎまでに600票以上の反対票が集まった(賛成票はたった3票)。私も「絶対反対」と迷うことなく反対票を投じる方を何人も見たし、その中には戦争体験者と思しき人も少なくなかった。

平和祈念公園から那覇市内に戻る道中、具志堅さんは「一般の(沖縄の)人は、道路も混む慰霊の日に、よく平和祈念公園に行くものだなあ。死者に対する思いが一人一人強いのだろうなあ。沖縄にとっての6月23日と、本土にとっての8月15日は違うのかなあ」と呟いた。ヤマトでは身近に戦没者があまりいないからだろうか、確かに戦没者への思いは沖縄よりも薄弱なような気がする。

戦没者への思いが強いのは具志堅さんだけではない。6月22日、たまたま夕食に入った料理屋の店主は「南部の土地の中には戦没者の魂が宿っている。普通に死んだのではなく、戦争の犠牲になった人々(の魂)だ。南部土砂は絶対に動かすべきでない」「具志堅さんの言うことは沖縄の本音だ。自分お店の常連さんも10人に7人は反対だと思う」と声を張って怒りを伝えてくれた。自身は1945年11月生まれ、母は身重で戦火の下を逃げ惑ったという。父は戦没し、家族写真も戦火に焼かれたので、父の顔は見たことがなく、兄の顔から想像するほかない。慰霊の日には朝から礎に名が刻まれた父と兄の慰霊のため、平和祈念公園に向かうが、戦没した肉親の遺骨は帰ってきていない。父と兄を失ったことはずっと尾を引いていて、戦争のことを話したくもないと言う。「沖縄は逃げる場所がない。(一度戦場にされると)外国にも逃げられない」と軍事化される沖縄への不安も打ち明けてくれた。故郷が戦場にされ、肉親を戦争によって奪われる悲しみと悔しさを身をもって知る沖縄の方々の心を、ヤマトの日本人は受け止めることが出来ているだろうか。わざわざ沖縄まで来たのなら、首相はこうした沖縄の方々の声を多少は聴くべきだったはずだ。

午後の「守ろう!戦没者の尊厳+沖縄県民の命」集会で、具志堅さんは、「私は負ける気がしない。(遺骨土砂問題は)明らかに間違っていて、罰当たりだ。我々が言い続けるだけでなく、本土の人、世界中の人にも知ってもらいたい。沖縄の問題だと言うことで矮小化される必要はないし、人として間違っていることは正さなければならない」と参加者を鼓舞するように語り掛けた。慰霊の日の夜、作戦会議も兼ねた会食の場で、「疲れないこつは誠意を尽くすことだ。相手に忖度することはないし、(遺骨土砂問題への反対は)世界中誰に対しても通用する」と勇気づけてくれた。

具志堅さんの強い言葉と意志は、遺骨土砂問題の運動を始めた2年前から一貫して変わっていない。私も変わらず、具志堅さんをはじめ、沖縄の方々のことを地道に、そして誠実に伝え続けなければいけない。そう自分に言い聞かせて沖縄を後にした。

(現地レポート・終)

具志堅隆松さんと支援者が作ったビラ(表)
具志堅隆松さんと支援者が作ったビラ(裏)

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