「安全保障の論理」が押し寄せる沖縄
先日、辺野古新基地建設をめぐって福岡高裁那覇支部で国の主張を認める判決が下されたが、国は今回の訴訟でも「わが国の安全保障に関わる」と、「安全保障の論理」で新基地建設の必要性を主張した。この裁判でも、中国の海洋進出や台湾有事の可能性をにらんだ「南西シフト」をめぐる議論でも、「安全保障環境の変化」を錦の御旗として沖縄の基地負担は「気の毒だが仕方ない」といった議論がよく聞かれるようになった。
「国の安全保障政策に協力しない沖縄はわがままだ」といった声はさすがに主流とはなっていないが、この先はどうだろうか。「安全保障の論理」の肥大化は、沖縄に奔流となって押し寄せてくる。在日米軍専用施設の7割が小さな沖縄に集中するという歪んだ構図が復帰後、そして冷戦後も大きく是正されることなく、今度は中国を念頭に置いた「安全保障の論理」で増強され、正当化されかねない。
そうした流れに異議を申し立てる『沖縄タイムス』『琉球新報』など沖縄の言論に対して「反日」といったレッテルを貼る向きもあるが、沖縄が「安全保障の論理」の肥大化に抗することなく、同調して身を任せたときに「基地の島」の暮らしや社会はどうなってしまうのか。
政府や東京など中央の言論空間では、台湾有事を「万が一」に備えた頭の体操として考え、そして防衛費増強を世論に呑ませるためのキャンペーンとして用いているきらいもある。だが、机上での「頭の体操」は、沖縄ではシェルター建設や九州への住民避難計画といった生活に直結する問題として立ち現れる。県民の安全と生活を守るためにも、「安全保障の論理」がむき出しのまま沖縄を呑みこむことを許容できないのは当然だろう。
逆に異論を唱えることなく、粛々とさらなる基地負担を受け入れるようになった沖縄は、政府にとっては「都合のよい存在」かもしれないが、それが万が一の際にはどのような事態を招くのか。「捨て石」となった70数年前につづいて、またしても使い捨てにされた沖縄といった未来図は到底、受け入れられるものではない。
「国益」の多面的かつバランスのとれた検討を
安全保障は国の存立に直結するだけに、きわめて強力な正当性を持つ。国の安全保障が保たれなければ、経済の繁栄も平穏な社会生活も成り立たない。しかし他方で安全保障だけで国家と社会の平和と安定がもたらされるわけではない。
日本が直面する課題は多い。急速な少子高齢化、財政難、産業競争力の低下、そして今後も予想される大震災のリスクなど、どれも対応の難しい問題ばかりだが、避けて通ることのできない課題である。先日、自衛隊の採用年齢の上限が26歳から32歳に引き上げられるなど、高齢化社会の波は安全保障分野の足元にも押し寄せている。
日本として制約のある国力をどの程度、安全保障分野に振り向けるのか。そこで必要なのは日本にとっての「国益」とは何かを改めて多面的、かつ冷静に考察することであり、そのプロセスで「安全保障の論理」は適切に相対化されることになるだろう。
振り返ってみれば「安全保障の論理」がいつしか際限なく肥大化し、ついには明治以来の帝国日本を食いつぶしたのが戦前の歩みだった。そのような意味での「新しい戦前」は御免こうむりたい。ますます肥大化する気配の「安全保障の論理」に対して思慮深く向き合うことがこれまで以上に求められる2024年の年明けである。