肥大化する「安全保障の論理」と沖縄

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「勇ましいことを言っていれば平和になる」

もちろん中国の軍事力の急激な拡大と能力向上という現実を前に、抑止力の強化と軍事バランスの維持は重要不可欠だ。しかし、それはいわば「縁の下の力持ち」であるべきで、そのような軍事バランスの上にどのようにして安定的な国際秩序、地域秩序を創出するかが政治に本来、求められる仕事のはずである。

だが近年は、「『勇ましいことを言っていれば平和になる』と考える政治家が増えている」(橋本龍太郎首相の側近だった江田憲司衆議院議員。『朝日新聞』12月29日)ように見える。防衛費の大幅な増額も岸田文雄首相の下、政治主導で打ち上げられた。しかし、財源の確保にめどはつかず、増額の規模や内容についても自衛隊の有力OBから「今の自衛隊の身の丈を超えている」といった声も聞かれる。

安全保障は国家が存続する上で最も重要な要素であることは間違いない。だが、その重要性を説く「安全保障の論理」には肥大化し、自己増殖する傾向があることには注意が必要だ。いつの時代でもどの国でも軍は予算と人員の拡大を志向し、そのために新たな脅威を設定しがちだ。政治家も同調して「安全保障の論理」を声高に唱え、それが社会にも浸透してくると、「経済の論理」や「社会の論理」、そして「民主主義の論理」といった安全保障以外の重要な論理を圧迫し始める。 

やがて「この非常時に国に協力しないとはけしからん」といった風潮が蔓延し始めると、社会は硬直して柔軟性を失い、活力も失われる。最終的には民主主義を守るための安全保障が自国内で民主主義を圧迫するというパラドックスに陥りかねない。それが「新しい戦前」が本当に到来した時の怖さだろう。

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