沖縄、貧しき豊かさの国――岸本建男と象設計集団が遺したもの【第4回 大屋根の下を抜ける風――今帰仁村中央公民館の優雅】

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草の屋根と赤い柱

この連載の1回目に書いたように、象グループで最初に沖縄へ入ったのは丸山欣也である。仲間うちの愛称は「マルキンさん」。眼鏡を鼻へずり落とし、やや上目遣いに相手を見る表情は人なつこさと注意深さの両方を感じさせる。その丸山が「象」の面々と共に腕を揮ったのが、今帰仁村の中央公民館だった。

その頃、村にはすでに19の集落公民館(字公民館)があり、各集落共同体の協働作業や文化活動の場になっていた(建設費の多くは米高等弁務官資金でまかなわれたという)。中央公民館の方は本土の制度にならって設置される以上、字公民館とは異なる(いわば上からの働きかけの)機能を持たされる。加えて今帰仁の場合は、当初海洋博の宿泊施設にも当て込まれていた。つまり村にとっては、今まで経験したことのない種類の箱物だった。

「象」のメンバーは19カ所の集落公民館を巡り、建屋の機能や配置などのプランを把握した上で、集落公民館の理想像とでもいうべきイメージを掲げてみせた(『総合開発計画・基本構想』所収)。描かれた絵は、公民館・共同売店・共同炊事場・保育園・共同出荷場・農機具格納庫などを分舎方式で配置している。

たぶんこの時点では、中央公民館も分舎方式を想定していたのだろうが、制約は建設費(「公民館のしおり」によれば1億2000万円)という一番現実的な方面からやってきた。分舎方式を諦め、次善の策として採用されたのが「大屋根分舎方式」である。

大屋根がつくり出す建築面積は約1450平方メートル、対して各部屋の延床面積は約700平方メートルで、建築費を抑えつつ屋根がつくる日陰の部分が多目的スペースとして活用できる。大屋根の下には自由に出入りができ、和室を除く各部屋は土足で入れるように土間になっていた。内外の境界がゆるやかな半屋外空間は、紛れもなく沖縄の民家に学んだ工夫である。

今帰仁村中央公民館平面図(「公民館のしおり」[田港朝茂氏提供]より)

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