異質な政治空間へのまなざし~軍事と住民自治

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軍隊は住民を守らない、というのは沖縄戦の最大の教訓である。一方で、軍事的な備えを充実させることが安全につながる、との意識が沖縄でも広がりを見せつつある。正解が一つではない現実と、どう向き合えばいいのか。

今年3月に亡くなったライターの安里英子が、生涯を通して希求したのは琉球弧の自治だった。軍事やリゾート開発が固有の文化や自然環境に大きな負荷を与えてきた現実。住民の主体的な意思が反映されない現実。大国間の駆け引きに翻弄される現実。遺作となった『琉球 揺れる聖域』で安里は収奪の爪痕を直視した上で、共通の歴史体験をもつ台湾や韓国の「アジア市民」との交流に期待をつなぎ、「国家のない『自治社会』は可能だろうか」とつづった。

いま、多くの日本人にとって沖縄の異質な政治空間は「組み伏せるべき対象」としか映らなくなっていないか。そう思えば一層、安里の遺志を「夢物語」と切り捨てることはできない。

とはいえ、武力による現状変更を中国に思いとどまらせる行動や、有事下の住民保護の重要性は論をまたない。問題は日本の国力が相対的に低下する中、日米同盟を軸にそれをどう実現させるかだ。

『従属の代償』で布施祐仁は、尖閣諸島をはじめとする南西諸島を防衛する「壁」となることが当初の目的だった自衛隊の南西シフトは、米インド太平洋軍の対中国の軍事戦略に組み込まれた結果、台湾有事で米軍が優位に戦うための「盾」に変質したと指摘する。その決定的な分岐となるのは2025年度から計画されている敵基地攻撃が可能な長射程ミサイルの配備だ。台湾有事で米国本土が戦場になる可能性は低い。米国は抑止に失敗し、日本全土が戦場になっても戦争に勝てばいいという立場だ。それでも、安倍-岸田内閣で安全保障政策の大転換を図ったのは、米国に「見捨てられる恐怖」が根っこにあるからだという。

日本にとっての琉球弧が、米国にとっての日本という入れ子の構図。日本はこのまま米中対立の「砦」の立場に甘んじるしかないのか。

膨張する中国の覇権主義は脅威だが、その対応に注力するあまり米国の要請に際限なく応じる危うさも日本にはある。それは筆者が17年間暮らした沖縄から見える日本の弱点だった。「自国第一」に磨きをかける次期トランプ政権下でこの国是の脆さに直面したとき、日本人は沖縄とどう向き合うのか。国家のエゴと暴力が世界を覆う中、いつ「切り捨てられる側」になってもおかしくはないという認識は共有しておいたほうがいい。

【本稿は2024年12月23日付毎日新聞掲載記事を加筆修正しました】

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