琉球に寄港したアルセスト号(大浜信泉が航海記を翻訳=連載④参照)が帰国後、英国から思わぬ「贈り物」が届いた。元乗員が琉球へのキリスト教布教を目的に募金活動を始め、退役士官らをメンバーに英国海軍琉球伝道会を組織。医師でもあり、13か国語に通じていた宣教師ベッテルハイムを派遣した。琉球王府は拒んだものの強引に上陸し、家族3人と中国人助手らと共に8年余、伝道や医療奉仕、聖書の琉球語翻訳に努めた。1853年、ペリー艦隊が那覇入りした際、ベッテルハイムは自宅に英国旗を掲げ、小舟で駆け寄りペリーと3時間近く懇談、以後、通訳・アドバイザー役となった。ペリーは琉球を前線基地(計5回寄港)に日本と開国交渉を続け、小笠原諸島や中国・朝鮮とも往来。ペリーが帰国する際、王府は厄介者のこの宣教師を同乗させた。滞在中、厳しい監視下で辻説教に立つなどしたが、暴徒に遭うなど入信者はほとんどいなかったという。
しかし琉球処分(日本併合)を経て、評価が一変。琉球国時代、一時寄港を含めて延べ30人の宣教師が来琉したが、ベッテルハイムだけは後世、沖縄で称えられる存在となり、その顕彰行事が沖縄戦前に2回、戦後米軍占領期にも2回行われた(注1)。他の宣教師らは、キリシタン禁令が敷かれていた日本を目指す途上、一時的に立ち寄ったに過ぎず、琉球伝道に興味を示すことはほとんどなかった。教会やミッションスクール、社会事業施設を造るなどして、近代化や文明化に貢献したこともない。日本で布教が黙認されるようになると、橋頭保の琉球をスルーし、日本へ殺到したからだ。ベッテルハイムが進んだ知識(英語や科学・キリスト教・西洋医学)を伝えたことを後世の沖縄人は再評価し、感謝の意を寄せた。
時代への転換点に、琉球に足跡を残したベッテルハイムとペリー。彼ら異国人がどのような役割を果たしたのかを広く知らしめたのが、石垣島出身の教師・歴史家である神田精輝だ。大浜信泉の三つ年下で、同じく岩崎卓爾や喜舎場永珣から教えを受けた世代。豊川善曄の父・善佐(連載⑤参照)が若い頃、神田精輝の本家が営む店で働いていたという仲だ。精輝は幼い頃から成績優秀で将来を期待されたが、平民農家の子は年長になると家業に専念するという旧慣に従い、退学させられた。教え子を不憫に思った喜舎場が父母らを説き伏せ、街の学校へ通わせた。喜舎場は下宿先を確保し、新しく「精輝」という名前を授けた。
その改名が彼の心に熱い息吹を吹き込んだ。大浜信泉と同じく沖縄県師範学校に進み、さらに広島高等師範学校を経て教員に。地理・英語を専攻。母校・沖縄師範在職中、当時日本に2冊しかなかったという『ペルリ日本遠征記(原著)』を書庫から見つけ、読みふけった。琉球に関する部分を訳出して、伊波月城(普猷の実弟)と共に『琉球新報』に連載。さらに出航から帰国までの概要を補筆し、単著『ペルリ提督琉球訪問記』(全246㌻)を1926年に刊行。伊波普猷が序文を寄せた。大分県の学校に転出していた32歳のころだ。ペリーらが恩納村の美観は英国の美しい村にも劣らないと書き残したことが、沖縄人に「我が島の壮麗さ」を気づかせた。中城城址を精緻に測量していた叙述から、地理や歴史研究には西洋の科学的な観察眼が必要だということを教えられた。翻訳本付録として、ペリー来琉を巡って島津家が幕府へ送った報告書も収録していることは、神田の非凡な歴史センスを感じさせる。『沖縄県史(別巻)』は「その翻訳が沖縄読書界に大きな影響を与えた。(中略)神田精輝の若々しい情熱をこめた熱気あふれる訳文の美しさは、郷土研究的にも一異彩を放ち、沖縄の教育資料としても新鮮味を加えた」と高い評価を与えている(注2)。