ベッテルハイム顕彰と神田精輝
『ペルリ提督琉球訪問記』を刊行した1926年は、ベッテルハイム来琉80周年にもあたっており、神田はその顕彰にも奔走している。ベッテルハイム顕彰行事はプレイベント(礼拝と講演会)を皮切りに、各地の教会や公会堂、学校でも講演会が開かれた。記念碑除幕式には県知事や県庁幹部、那覇市長や議員、医療関係者、裁判所長、教職員らが顔をそろえ、日本本土や奄美からも伝道者がはせ参じた。
顕彰行事は大正期に沖縄伝道に従事したブール博士が中心となって企画され、友人の志賀重昂(地理学者・政治家)を通じて皇族の閑院宮や大隈重信、小村寿太郎らから寄付金を集めたという。「近代日本経済の父」、渋沢栄一からは記念樹も届けられた(注4)。
来琉90周年記念式典(1937年)はさらに盛大で、ベッテルハイムの孫が米国から参加したことが祝宴に彩りを添えた。来琉する孫にルーズベルト大統領が私信を寄せており、その文面が朗読された。「沖縄で式典に参列した際には地元の人々との友好に尽くすよう、大統領として希望する」。日米両国の国旗も翻り、日英両語による讃美歌と祈祷、国歌斉唱。
この年は日中戦争が勃発し対米関係が悪化、すでに仏教界は時流に乗り、キリスト教迫害が強まっていた。宣教師の来琉が禁じられ、奄美では教会が閉鎖されて礼拝が禁じられている。式典はベッテルハイムが居住していた護国寺で挙行され、僧侶らも参列。宗派だけでなく、国境を超えた交流の場となった。
驚きなのは琉球語訳聖書の朗読に加え、方言劇が演じられたことだ。教会関係者らがベッテルハイムに扮し、当時の琉球人との交流ぶりを舞台で繰り広げた。終幕は、ペリーと共に琉球から去りゆくベッテルハイムと、別れを惜しみ涙する琉球人らのシーン。すでにこの時期、標準語励行が叫ばれ、学校では方言札が飛び交っていた。時勢に抗うような演出は、日本と米国という大国の間で呻吟する琉球の人々の、アイデンティティーの発露なのだろうか。
神田精輝は『琉球新報』(5月2日付)に「苦闘の宣教師ベッテルハイム―愛孫ベス・ブラット夫人を迎えて」を掲載。まるまる3ページにわたり、ベッテルハイムの経歴や逸話を紹介した。これら顕彰行事が日米融和への一助となるよう願いを込めている。
