豊川善曄のパナマ運河開通視察
豊川善曄も早い段階から、日米衝突を予言している。パナマ運河が開通した翌年の1915年、山梨県の瑞穂小学校校長だった豊川は現地視察。帰国すぐ、時局に対する国民の啓蒙を開こうと「巴奈馬(パナマ)運河の開通と太平洋の将来」と題する講演会を開く。さらに冊子にまとめ有志らに配布、外務大臣宛にも郵送しており、その現物が国立公文書館(アジア歴史資料センター)に残されている。「白人列強が中国大陸での権益獲得を狙う中、パナマ運河の開通によって米国艦隊が容易に太平洋に進出することができ、グアムやフィリピンまで勢力を拡大。日本が朝鮮、満洲に手を伸ばしたことで米国では排日機運が燃え盛り、いずれ米国との決戦に至る、国民はその覚悟を持たなければならない」。通商への影響だけでなく、地政学・海洋戦略・国際関係・軍事バランスにまで踏み込んでいる。米国のシーパワー理論を打ち立てたマハン『海上権力史論』でもパナマ運河は重視されていた。今なお米国の世界覇権を左右する要衝であることは、トランプ大統領がパナマ運河占有に意欲を見せていることからも分かる。
当時、豊川は27歳(大浜信泉は早大在学中)。これまで豊川のパナマ視察の件は知られておらず、どのようなツテがあったかは分からない。筆者が公文書館などのデータベースで検索した限り、運河開通直後に現地入りし、明確に日米開戦を指摘した文章は他に見当たらない。豊川の卓越した国際感覚がうかがえる。
実はその後、神田精輝と豊川善曄は共に名護町で教壇に立っている。関東大震災後、共産主義者との風評に遭って石垣島に引き込んでいた豊川は1928年、沖縄県立第三中学校に職を得た。3年後、同じ町内にある県立第三高等女学校の校長として神田が赴任してきた(任期後は第三中学校長に転出)。沖縄島の北部、ヤンバルで八重山生まれの2人は友誼を深めた。
2人の歩みはその後、暗転する。沖縄の軍事要塞化が着々と進む中、神田は理不尽な事件に巻き込まれて退職に遭い、1939年、46歳の若さで非業の死を遂げた。豊川は興亜を唱えて朝鮮へ渡るが、53歳で病没。彼らが命を長らえ、なお活躍していたら歴史により深く名を刻んでいただろう。大浜信泉はその早世を惜しむ一文を書いた。
戦時下をくぐり抜けた大浜信泉は敗戦直後から大学運営に携わるようになり、GHQ高官に私学振興を直談判、またいちはやく極東国際軍事裁判研究会を発足させて帝国日本の再出発に区切りをつけた。沖縄の政治的地位を巡ってダレス全権大使に書簡を送り、米軍占領下にある沖縄の支援に力を注いでいく。
日本の鎖国体制を突き崩したペリー来航を書いた神田精輝、世界を視野に入れて大東亜建設を唱えた豊川善曄。八重山生まれ同世代の彼ら3人は、海外志向が強く、時代の転換点をとらえる眼力があり、知力も備えていた。米国側とダイレクトに接触し、状況を切り拓こうとする行動力もあった。当人らがその時に意識していたかはともかく、いずれも米国とどう対峙していくかということを主眼に、同じ道を歩んでいる。

(注1)沖縄の近代とキリスト教伝道の関係、ベッテルハイム顕彰については一色哲『南島キリスト教史入門』(新教出版社)に拠った。
(注2)神田精輝はペリー翻訳本を刊行した同じ年、東京の大同館書店から、地歴系の教育者向けに『地理教授に於ける地図及略図描法の理論と其取扱法』という全524ページの大著を出しており、新進気鋭の研究者だった。また1932年から『琉球新報』に「沖縄郷土歴史読本」を210回にわたって連載し、教科書タイプの通史として広く読まれた。
(注3)新城栄徳主宰のネットサイト「琉文21」に掲載された同新聞の画像などに拠った。
(注4)。渋沢栄一伝記資料刊行会『渋沢栄一伝記資料(第38巻)』(渋沢栄一記念財団)には、柳田国男や吉野作造にも協力を求めたとの記述もある。