前回も触れたように、第一次北朝鮮核危機に際して米国防長官であったペリーは、次期首相の羽田孜に対して、在日米軍基地の使用について同意を求めた(1994年4月)。この場面でのペリーの告白は、日米安保条約に関わる「事前協議制度」の核心に及ぶことになる。
事前協議制度-日米安保の「奥の院」
まず、事前協議制度について触れておこう。日米安保条約に関わる事前協議制度とは、ごく簡単にいえば、在日米軍基地から日本域外に向けて米軍が出撃する際などに、米側が日本側と事前に協議を行うという取り決めである。
日米安保条約の核心部分は第5条と第6条である。このうち、第5条がアメリカによる日本防衛を定めたものであるのに対して、第6条は「極東条項」とも呼ばれ、在日米軍が「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」に活動することができるとされている。
だが、アメリカが在日米軍基地を日本防衛ならともかく、日本域外の極東に向けた活動のために自由に使用するのでは、日本の国家主権はどうなるのか。そこで設けられたのが、この事前協議制度であった。
これは1960年に現在の安保条約が調印された際、「第6条の実施に関わる交換公文」として日米間で合意されたもので、そこには「日本国から行われる戦闘作戦行動(前記の条約第5条の規定に基づいて行われるものを除く)のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする」と記されている。
1960年に日米安保条約が現行のものに改定された際、ポイントの一つは、新しい条約を、より日米対等なものとすることであった。1951年にサンフランシスコ講和条約と合わせて調印された旧日米安保条約は、占領色の強いもので日本側の反発も強く、その反発を和らげるために安保改定となったのであった。事前協議制度は、「日米対等」を印象付ける上で、きわめて重要な意味を持ったといえよう。
「事前協議」は行われたのか
このようにして設けられた事前協議制度だが、日本政府はこれまで、事前協議は一度も行われたことはないとの立場をとっている。
たとえば日本政府は、湾岸戦争に際して在日米軍がペルシャ湾に派遣された際には、米軍の運用上の都合により艦船や部隊を日本から他の地域に移動させたもので、「単なる移動」だとして事前協議の対象外だとした。事前協議でいう米軍の戦闘作戦行動とは、在日米軍基地から爆撃機等が直接出撃することだという説明である。
今回のETV特集「ペリーの告白」においてペリーは、1994年4月に米国防長官として訪日した際、朝鮮半島有事となった際には北朝鮮への対応に在日米軍基地を使用すること、その場合には、在日米軍基地が北朝鮮軍の標的になるリスクがあることを説明した上で、「(日本側に)ノーという機会を与えるのが適切だと考えました」。そして、「(日本側からの)基地の使用許可の答えはイエスでした。しかしこのことは公の場で議論したくないと具体的に頼まれました」と語っている。
米国防長官が、朝鮮半島有事を念頭に在日米軍基地の使用許可を求め、これに対して日本の次期首相が「イエス」と述べたのである。これこそ、まさに日米安保条約が定めた事前協議にあたるのではないか。そのような疑問が浮かんで当然であろう。