「回顧録」で語られなかったこと
実はペリーは今回の番組以前にも、第一次北朝鮮核危機に際しての対応について語っている。たとえば自著である『核なき世界を求めて 私の履歴書』(日本経済新聞出版社、2011年、107-111頁)では、次のように述べている。
「(日本側に対して)私が求めたのは…朝鮮半島において軍事衝突が発生した場合、その後方支援のために在日米軍基地の使用が必要であり、それを事前に許可してほしいということだった」「もちろん、日米安全保障条約第6条では、朝鮮半島などでの『周辺有事』の際に我々が日本の軍事施設を使用することを認めてはいる。ただ、実際にそうなった場合、やはり時の日本政府にきちんとその旨を説明し、全面的な理解を得たうえで、支持してもらわなければならない」。
ペリーはこう述べた後で、「1994年4月21、22日両日、私が訪日した目的はその確証を得ることだった」と記している。
同書によれば、この訪日時におけるペリーと羽田のやり取りは、以下のようなものであった。「私(ペリー)は羽田外相に対して『今、(朝鮮半島に)軍事的に対立の兆候があるかと言われれば、自分としてはそう考えていない』と強調した」。
そして同じく同書によれば、この席上における羽田の発言は、「仮に北朝鮮がなおも態度を変更せず、国連安保理で制裁を決定することがやむを得ない状況になれば、わが国としては憲法の範囲内で責任ある行動を取る」というものであった。
語りはじめたペリー
この場面におけるペリーの発言に切迫感が薄いのに対して、羽田の応答には危機感が濃厚である。両者の温度感が釣り合っていないのは、おそらくペリーがこの席上における自らの発言を、意図的に穏当なものとして記しているためであろう。
実際には今回の番組で「告白」しているように、基地使用許可をめぐって日本側に「イエス、ノー」を問う発言がなされたのであろう。そして「イエスだが、公の場で議論したくない」という羽田の答えは、このペリーの回顧録では省かれているのである。
その後、特に近年になって、ペリーは日本のメディア各社に対して、この第一次北朝鮮核危機について積極的に語っている。そのいずれにおいても、ペリーは北朝鮮との対話の必要性を強調しており、圧力に傾斜しがちな昨今の状況に対する危機感があるのであろう。
しかしながらその一方で、管見の限りでは、今回のETV特集よりも前の段階において、ペリーが「イエスだが、公の場で議論したくないと具体的に頼まれました」という部分を語ったインタビューは、ないように思われる。
この番組でペリーが行った、この踏み込んだ「告白」を受けて、前述の問いが再び浮上するのである。すなわち、第一次北朝鮮核危機に際して、日米間で事前協議は行われたと言えるのか、という疑問である。
(以下、次回につづく)