「隠す安保」と「見せる安保」
「公の場で議論したくない」という羽田の意向の背後に、連立与党組み替えをめぐる当時の政局が存在していたことは、本連載の第二回(その2)で触れた通りである。だが、そのような永田町の事情にとどまらず、「日本国民に不要な心配を抱かせる」という言葉は、ある時期までの日本の安全保障議論をめぐる雰囲気をよく示している。
あまりに膨大な犠牲を出した第二次世界大戦の生々しい記憶から、戦後日本における平和主義は強固な世論に支えられていた。その中にあって、アメリカの軍事戦略にあからさまに加担することは、日本国内ですぐさま政治問題化し、時の政権を揺るがしかねないものであった。
そこで歴代自民党政権は、日米安保に関わるいくつもの「密約」によって、米側の要請と国内の平和主義との矛盾を糊塗しようとした。核兵器を搭載した米艦船の日本寄港が、表向きは「非核三原則(核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」)によって否定されながら、実体としては黙認されていたことなどは、その典型であろう。
すなわち往時において安全保障問題とは、「隠すもの」だったのであり、第一次北朝鮮核危機をめぐる羽田の対応は、冷戦終結直後のこの頃も、依然として「隠すもの」であったことを浮かび上がらせる。
しかし、このような日本国内の意識は、冷戦後において徐々に変化を見せる。中東を舞台とした湾岸戦争やイラク戦争では、「アメリカにどこまで協力するのか」が焦点であったが、北朝鮮の核開発や尖閣諸島をめぐる中国との軋轢が強まる中で、むしろ「見せる安保」によって、政権の求心力を強めようという傾向が見られるようになった。
むろん、対外的な危機に際しては、強い基盤を持つリーダーシップが必要だという議論があるだろうし、逆に歯止めやバランスが失われることを危惧する声もあるだろう。
今年9月、安倍晋三首相は北朝鮮の核開発を「国難」だと訴えて解散に踏み切り、野党の分裂騒ぎもあって、結果としては解散前の議席を維持することに成功した。そのことの是非はひとまず脇に置くとして、それは「見せる安保」の一つの極地であり、「冷戦後」という時代における日本の意識の変化の大きさを物語るのである。
「密約」というもう一つの問題
第一次北朝鮮核危機をめぐるペリーの証言は、このように事前協議について新たな事実を明かすものであったが、もう一つの重要な問題についても、波紋を投げかけるものであろう。それは事前協議制度をめぐる密約との関係である。
在日米軍の日本域外への出動について、日本政府との事前の協議の対象とするのが事前協議だが、実はそこには、例外を設けるという日米間の密約が存在していた。具体的には、朝鮮半島における有事については、事前協議の対象外とするという密約である。
1950年6月に朝鮮戦争が勃発した際、38度線を突破して南進した北朝鮮軍に対して、不意を突かれたアメリカは後手にまわり、韓国側は一時、釜山近郊まで追いつめられた。アメリカは国連決議を取り付けて国連軍を結成し、現在、巨大国際空港(仁川空港)のあるソウル近郊の仁川に上陸作戦を決行して形勢を逆転するが、当時、占領下にあった日本は米軍が朝鮮半島で戦う上で、後方基地として不可欠の存在であった。
1960年に新たに現行の日米安保条約が結ばれ、事前協議制度が導入された際、米軍部は朝鮮戦争の再来を懸念したこともあって、朝鮮半島有事は日本政府との事前協議の対象外とするよう強く求めた。具体的には、在日米軍が朝鮮半島の国連軍を支援するなど、国連軍としてとる行動は、事前協議の対象ではないと主張したのである。結局、密約という形で朝鮮半島有事は事前協議の例外とされたのであった。そしてこの密約は、沖縄返還とも深く連動することになる。
そこで今回のETVでのペリーの「告白」である。そもそも密約によって朝鮮半島有事については事前協議の「例外」とすることが保証されているのであれば、羽田に「イエス、ノー」の判断を求めること自体が不要になるはずである。この点について、ペリーはどのように認識していたのであろうか。この点についての「謎解き」は、次回に行うことにする。
(以下、次回につづく)