ペリーは何を語ったのか~「元米国防長官・沖縄への旅」を読み解く【その4】

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在日米軍基地からの出撃を対象とする日米安保条約の「事前協議制度」。日本政府はこれまで事前協議は一度も行われたことはないとしている。しかし、今回のETV特集「ペリーの告白」で、ペリーは第一次北朝鮮核危機に際して、19944月、日米間で実質的な事前協議が行われたことを「告白」した。果たしてそれが意味するところは・・・。

 

明かされた真相

 

第一次北朝鮮核危機に際して、日米間で事前協議は行われていたのか。実はこの点については、過去にも報道がなされている。2003721日付の共同通信は、この94年の危機に際して、日米両政府が事前協議に向けた「準備」を行っていたことが明らかになったと報じた上で、「これまで(事前協議の)実施例はなく、日米間の具体的な動きが判明したのは初めて」と、「特ダネ」であることを強調している。

またこの報道では、94年の危機に際して、「米軍出撃を想定して政府内で事前協議の準備が進められた」、「駐日米大使と協議することになっていた」といった日本側当局者の証言を紹介している。

その後、2010122日には「日本経済新聞」が、国防長官であったペリーが94年の危機に際して、日本側に基地使用の確約を求めたことを報じている。これは同紙に掲載中であったペリーの回顧、「私の履歴書」の中で、ペリー自身が記したことをニュースとして報じたものであった(この「私の履歴書」は、前回触れたペリーの回顧録、『核なき世界を求めて 私の履歴書』のもとになった連載である)。

この際に同紙は、94年当時に外務事務次官であった斉藤邦彦にコメントを求め、斉藤は「自分は何も聞かされていなかった」とした上で、「(ペリーの確約要請は)事前協議とは言えず、その前段階の『予備的折衝』に近い」と述べている。

こうした過去の報道を踏まえてみると、今回のETV特集「ペリーの告白」でペリーは、これまでになく踏み込んだ発言をしたことが明らかになる。

すなわち、944月のペリー訪日の際、実際には事前協議の「準備」にとどまらず、実質的な「イエス、ノー」の機会が設けられ、次期首相である羽田が、基地使用についてイエスと述べていたのである。

 

「国民に不要な心配を抱かせる」

 

前述の2003年の共同通信の報道によれば、日本側当局者は事前協議が行われる際には、駐日米大使がその相手だと認識していたことが窺われる。ところが実際には、米本国から国防長官であるペリーが自ら訪日し、次期首相に対してきわめて率直・明快に基地使用の諾否を問うたのである。

形式的なことはさておき、権力中枢に位置する次期首相と米国防長官の間でこれだけ明瞭かつ具体的なやり取りが交わされたのである。実質的な事前協議が行われたと見なすのが、自然ではないだろうか。

そうだとすれば、なぜこのときの事前協議の存在はこれまで明かされることなく、ペリー自身も過去の回顧等では踏み込まなかったのであろうか。

今回のETV特集でペリーは、羽田が「イエス」の後に続けて、「公の場で議論したくない」と米側に対して具体的に要請したことを明かしているが、それを補うのが、今年1129日の「朝日新聞」に掲載されたペリーへのインタビューである。そこでペリーは、羽田とのやりとりについて、「(基地使用について)彼(羽田)は『はい、分かりました』と言いましたが、(合意を)公表しないように要請されました。日本国民に不要な心配を抱かせるとのことでした」と、羽田の意図についても述べている。

このような日本側の強い意向が、これまで羽田=ペリー会談の実相が伏せられてきた理由であろう。一方の当事者である羽田元首相は、今年8月に82歳で逝去した。今年90歳を迎えたペリーには、今回の番組に際して、歴史の証言を残すという強い意思があったのではないだろうか。

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