普天間基地「返還問題」の起源を探る~その①~

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普天間基地の歴史

 

まず、普天間基地の歴史を見ておきたい。普天間基地の建設が開始されたのは、1945年の沖縄戦の最中である。もともと、普天間基地がある場所には集落が存在し、約9000人が生活していた。4月に沖縄に上陸した米軍は南部へ侵攻し、同時に日本本土を攻撃するために集落を破壊して普天間基地を建設する。集落に住んでいた人々は、戦争中から戦後数か月間、収容所に収容されていた。彼らが1945年末から1946年半ばに解放されて自分たちの土地へ戻ったとき、集落は跡形もなく、普天間基地の滑走路が広がっていたのである。住民たちはやむなく基地の周辺で生活を始めるしかなかった。

普天間基地は、当初陸軍が管轄していたが、1960年に海兵隊へ移管される。滑走路も、当初2400メートルだったが、朝鮮戦争で後方基地として使用され、1953年には2700メートルに延長される。とはいえ、当初、普天間基地は米軍にとってそれほど重要という訳ではなかった。米国がベトナム戦争の泥沼化に苦しんでいた1968年には、国防省内で普天間基地の閉鎖が提言されている(川名晋史「1960年代の海兵隊『撤退』計画にみる普天間の輪郭」屋良朝博ほか『沖縄と海兵隊―駐留の歴史的展開』旬報社、2016年)。

ところが、沖縄の施政権返還が合意された1969年以降、普天間基地は強化されていく。同年11月には、第一海兵航空団の第36海兵航空群が普天間基地に移駐し、本拠地として活動するようになる。沖縄返還直後の19731月に嘉手納基地の補助飛行場としてジェット機が使用できるよう、普天間基地の滑走路の延長が行われる。1976年には山口県の岩国基地から第一海兵航空団司令部が沖縄のキャンプ瑞慶覧と普天間基地に移駐する。同年、北谷町のハンビー飛行場が返還されると、代替となる格納庫や駐機場などが建設されるとともに、ハンビー飛行場で行われていた海兵隊のヘリコプター訓練が普天間基地で行われるようになる。しかし、普天間基地の役割がますとともに、周辺地域への騒音被害や事故も増えていった。

普天間基地が街の真ん中にあることを、米国政府も問題視していた。1973年、国務省政治軍事問題局は、普天間基地について、「ここで使用される航空機は、人の多く住む地域を低く飛び、目立った騒動を起こす」ので、「明らかに政治的負債」だと問題視している。また1976年に第一海兵航空団司令部が沖縄に移転してきた際には、米国の那覇総領事館は、移転先の普天間基地が街の真ん中にあることに懸念を表明していた(野添文彬『沖縄返還後の日米安保―米軍基地をめぐる相克』吉川弘文館、2017年)。

(以下、次回に続く)

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