「平成」の時代が終わり、「令和」の時代が始まろうとしている。本稿では、平成の時代は沖縄にとってどのような時代だったのかを、歴代の県知事の米軍基地問題への取り組みを通して振り返ってみたい。
平成の時代、歴代の沖縄県知事は、米軍基地問題をめぐって日本政府や日本本土に対し一貫して「異議申し立て」を行ってきた。95年の少女暴行事件を受けて政府と対峙した大田昌秀、普天間基地の名護市辺野古への移設に反対した翁長雄志だけでなく、西銘順治・稲嶺恵一・仲井眞弘多といった自民党系の「保守」知事さえも、基地問題で政府との関係はしばしば緊張した。こうして、「沖縄米軍基地問題」は平成の時代を通して日本政治や日米同盟の重要論点の一つであり続けた。
歴代県知事の取り組み
それでは、歴代の県知事を順に振り返ってみよう。
西銘順治は1978年の知事就任以来、自民党の衆議院議員だったという経歴を生かし、中央政府との太いパイプを生かして沖縄の経済振興に尽力した。西銘は日米安保や米軍基地を容認していたが、米軍の事件・事故に対しては厳しく臨み、米軍基地の整理縮小にも取り組んだ。1985年と1988年に訪米し、普天間基地の返還を米国政府に要求している。
1990年に知事に就任した大田昌秀は、米軍用地強制使用の代理署名を拒否し、日本政府と裁判で争った。1996年のSACO最終報告で普天間基地の辺野古移設が方向付けられると、県内移設に反対し政府と対立する。国際都市形成構想や基地返還アクションプログラムを策定し、米軍基地のない沖縄の将来構想を描いたことでも注目される。
経済人から1998年に県知事になった稲嶺恵一は、2000年に軍民共用・15年使用期限という条件付きで普天間基地の辺野古移設について容認する。ところが、米軍再編計画の下で、日本政府はこの合意を反故にし、2006年には、名護市辺野古沿岸を埋め立ててV字型の二本の滑走路を有する普天間基地の代替施設を建設することで米国政府と合意した。沖縄県の頭越しの合意に稲嶺は強く反発した。また2004年の沖縄国際大学への普天間基地所属の米軍ヘリ墜落など、米軍による事件・事故に対して、稲嶺は政府に厳しく抗議している。
同じく経済界から2006年に県知事になった仲井眞弘多は、最終的に安倍政権の圧力を受けて2013年末に普天間基地の辺野古移設のための埋立てを承認したものの、そこに至る過程では、しばしば政府とぶつかった。2010年の県知事選挙では、仲井眞は普天間基地の県外・国外移設を公約に掲げていた。また辺野古に移設されなければ普天間基地は固定化されるという議論については、「政治の堕落」だと厳しく批判した。
2014年に辺野古移設阻止を掲げて県知事になった翁長雄志は、もともとは自民党の政治家で移設も容認する立場だった。しかし、日本政府の対応に批判を強め、保革を越えて辺野古移設を阻止するという「オール沖縄」の構築を主導する。翁長は、辺野古移設阻止のため、仲井眞による埋め立て承認を取り消し、日本政府と裁判で争った(2016年に最高裁判決で敗訴)。また、全国知事会による日米地位協定改定の提言を主導したことも重要だ。
現職のまま翁長が死去した後、玉城デニーが辺野古移設反対を唱えて2018年の沖縄県知事選挙に勝利した。今年2月24日には普天間基地移設のための辺野古埋立てをめぐる県民投票が行われ、有効投票数の七割が「反対」であった。これらの県民の意志表示にもかかわらず、政府は辺野古移設のための埋立て工事を進めている。