平成の沖縄県知事と米軍基地問題

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沖縄県民の期待と失望、そして自信の高まり

 

沖縄県知事と日本政府との関係が緊張したものになった背景は、平成の時代が、米軍基地問題については沖縄県民の失望の繰り返しだったことがある。この間、国際的には冷戦が終結し、国内的には政権交代が実現するなどの変化によって基地問題解決への県民の期待が高まったが、その期待は繰り返し裏切られてきた。米軍基地の沖縄への集中という過重負担は十分に軽減されず、米兵による事件・事故は続いた。普天間基地の「返還」は「移設」にすり替えられ、度重なる県民の反対にもかかわらず工事は進んだ。これらの県民の失望と怒りを背景に、歴代の県知事は、沖縄への基地の過重負担に依存する日米安保体制の是正を求めたのである。

一方、沖縄県知事の「異議申し立て」には、平成の時代を通して沖縄県内において「自信」が高まっていたという背景も見逃すべきではない。まず、沖縄経済の発展である。沖縄の県民総所得は、平成元年にあたる1989年には2兆8168億円だったが、平成27年にあたる2015年には4兆3644億円まで拡大した。沖縄のリーディング産業といわれる観光業も、平成元年の収入は2478億円だったが、平成27年には6022億円まで躍進し、県民所得に占める割合も8.8%から13.8%に上昇した。県民総所得に占める米軍関係収入の割合は、平成時代、一貫して5%に過ぎない。しかも、那覇新都心、北谷町のアメリカン・ビレッジ、北中城村のイオンモール・ライカムなど、返還された米軍基地の跡地利用が成功し、「沖縄は基地で食っていない」「米軍基地は経済発展の阻害要因」(翁長雄志)だと主張されるようになった。

さらにこの時代には、アジアが急速な成長を遂げ、歴代の県知事も沖縄の地理的優位性を利用し、アジアのダイナミズムを沖縄に取り入れることを重視してきた。大田県政による「国際都市形成構想」、稲嶺県政による那覇空港のハブ空港化、翁長県政による「アジア経済戦略構想」など、アジアとの結びつきによって沖縄の「自立」が模索されたのである。沖縄は「日本の辺境」から「アジアの中心」「日本とアジアを結ぶフロントランナー」と位置づけられていった。

また、沖縄出身の芸能人の活躍など、沖縄の魅力が日本全国に浸透し、それを受けて沖縄県民も自信を強めたといえる。西銘知事の時代には、沖縄県立芸術大学が創設されたり首里城が復元されたりして、沖縄の伝統文化や歴史が見直されることになった。こうした沖縄県民の自信を背景に、歴史の沖縄県知事は日本政府と対峙してきたのである。

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