普天間基地「返還問題」の起源を探る~その①~

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20171213日、沖縄県宜野湾市にある米海兵隊普天間基地に所属するヘリコプターCH53Eの脱出用の窓が、同飛行場に隣接する普天間第二小学校のグラウンドに落下した。当時、グランドで体育の授業が行われており、7.7キロのヘリの窓が落下したのは小学生の10メートル先だったという。この事件は、宜野湾市の街の真ん中に所在する普天間基地の危険性を改めて示した。

 

「返還問題」を相対化する

 

普天間基地は、1996年に日米両政府によって返還が合意された。しかし、返還条件が名護市辺野古への県内移設であることから、20年以上にわたって基地返還は実現しないままこの問題は迷走している。日本政府は、普天間基地の辺野古移設は、街の真ん中にある普天間基地の危険性を除去するとともに日米同盟の抑止力を両立させる「唯一の解決策」だとして、移設工事を進めている。一方、沖縄では、翁長雄志県知事を筆頭に、多くの県民が普天間基地の辺野古移設に反対し、政府の移設工事強行に反発の声が高まっている。2017年の世論調査によれば、普天間基地の辺野古移設に賛成する人は27%に対して反対する人は63%だった。辺野古移設に反対する人のうち県外または国外への移設を求める人が55%、「撤去」を求める人が36%に対し、「普天間にそのまま残すべき」と答えた人は、3%に過ぎなかった(河野啓「沖縄米軍基地をめぐる意識―沖縄と全国」『放送研究と調査』20178月)。つまり沖縄県民の多数が、辺野古移設に賛成であれ反対であれ、普天間基地返還を求めているのだ。

私たちは、普天間問題を考える際に、県内移設を前提とした普天間基地返還という1996年の日米合意を「起源」と考えがちである。また、1996年の普天間返還合意については、その前年1995年の3人の米兵による少女暴行事件への沖縄県民の怒りや、当時の橋本龍太郎首相やクリントン大統領、ペリー国防長官のリーダーシップが注目される(宮城大蔵・渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた20年』集英社新書、2016年)。しかしその結果、1996年以前から求められてきた、沖縄における普天間基地返還要求が見落とされがちなのではないだろうか。

そこで本稿では、1980年代を中心に、普天間基地返還問題がどのように沖縄において政治論点化していったのかを歴史的に振り返って検討する。これを通して、1996年の日米合意以降に注目しがちな普天間返還問題を相対化し、そもそも沖縄では何が求められてきたのかを考える。

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