「台湾引き揚げ」が静かなブームに~ 戦争体験の階層化を越えられるか

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「静」の戦争体験の継承

 

石垣島から台湾に疎開し、戦後に引き揚げてきた経験を持つ故・石堂ミツさんから、こんなことを聞かされた。ある大学の学生たちが八重山の戦争マラリアについて調査に訪れ、石堂さんは同世代のほかの人たちと一緒にインタビューに応じていた。熱心に耳を傾ける学生たちに、台湾へ疎開した人たちのマラリアについて話そうとすると、学生は「今回の目的は、その話ではないのです」と断ったという。戦争マラリアは八重山ではメジャーな戦争被害。その陰で、台湾に関する戦争体験は語られる機会が失われていたのである。

ちなみに、戦争マラリアも「静」の戦争被害である。

もともとマラリア生息地帯だった八重山では、人々はそこを避けて暮らしてきた。ところが、アジア太平洋戦争の末期、石垣島や波照間島などの人たちはマラリアの有病地帯に退避させられ、3000人以上が亡くなった。この戦争マラリアが社会的に関心を集めたのは、戦後50年となった1995年に、有病地帯への退避が軍命であったかをめぐる論争に一つの終止符を打つ形で政治決着が図られたことによる。政府は戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)による個人補償は行わない代わりに、3億円規模の慰藉事業を実施して八重山平和祈念館(沖縄県平和祈念資料館分館)の整備などを行った。

台湾引き揚げも戦争マラリアも、予備知識を仕入れてからでなければ理解しづらいのである。

ここまで考えて、もしかして、と思いつく。

もしかすると、南門市場の裏手にある旧県人会事務所は「静」の戦争を象徴するひとつのランドマークになるかもしれない。この建物のことを正確に表現すると、南風原朝保という沖縄出身の医師が開業していた診療所兼住居を台湾沖縄同郷会連合会という組織が使用していた場所。10日に先島を暴風域に巻き込みながら台湾北方を西へ抜けた台風8号の影響で、廃屋がばらばらになってしまったのではないかと気になったが、13日午後に見にいってみると、もともと傷みの激しい裏手側は「あばら家」の呼び名がいよいよふさわしくなってきた。それがかえって時代を感じさせ、かつての台湾引き揚げをイメージするうえでなにがしかの手助けをしてくれるかもしれない。

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