「台湾引き揚げ」が静かなブームに~ 戦争体験の階層化を越えられるか

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観光客もよく訪れる台北市内の南門市場の裏手に、屋根の一部が崩れ落ちた2階建ての廃屋がある。自動車はほとんどすれ違えない細い路地に挟まれ、そこから歩いていけるところにある中正紀念堂の壮大なスケールとの落差がはなはだしい。アジア太平洋戦争が終結した後、この建物は台湾にいた沖縄出身者が県人会の事務所代わりに使い、沖縄への引き揚げに向けて話し合いを持った場所である。

沖縄の新聞やテレビは、沖縄戦が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」に合わせて、アジア太平洋戦争を「沖縄」という切り口から振り返るのが通例だが、ことしはこの「台湾引き揚げ」がひとつのブームとなっている。終戦から73年が過ぎて、ようやく注目されたことになるが、そこには戦争体験の階層化とでも呼びたくなるような作用が働いているのではないか。

『琉球新報』は5月1日付で台湾引き揚げを報じた。台湾引き揚げの研究で学位を取得した中村春菜氏(33)の論文を軸にまとめられた「『沖縄籍民』の台湾引揚げ 証言・資料集」(赤嶺守編)を取り上げたのである。6月に入ると、『沖縄タイムス』も追いかけ、テレビでは琉球朝日放送(QAB)と琉球放送(RBC)が相次いでいずれも夕方のニュースで台湾引き揚げを特集した。

潮は引かない。『沖縄タイムス』は7月6日から、台湾引き揚げをテーマにした連載企画「波濤 台湾引き揚げ」を掲載し、主に宮古地方出身者らが犠牲になった引き揚げ船の遭難事件「栄丸事件」をめぐる人々の思いや、いわゆる「湾生」(植民地台湾で生まれた人)のエピソードなどを取り上げている。

台湾引き揚げとは、植民地台湾で暮らした日本人たちが終戦後、台湾を離れて日本へ戻っていくことを示す。戻っていこうとする目的地が米軍統治下に置かれていたという点で、沖縄への引き揚げは本土への引き揚げと異なっていた。あらゆる資源が決定的に破壊され、多くの人命を失った後、戦後の沖縄社会のなかで、台湾引揚者が相当な役割を果たしたという点にも留意しておこう。たとえば、公選の行政主席を務めた後、本土復帰後は県知事を2期務めた屋良朝苗も、台湾から引き揚げてきた人物である。

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