亡くなった大田元知事に、翁長知事は何を語りかけたのか

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大田知事を激しく攻めたてた翁長氏

今年6月、大田昌秀元知事がなくなったあと、私は翁長知事に改めてインタビューをした。大田知事への思いをぜひ聞いてみたかったのだ。

それにはわけがある。大田氏の知事時代、翁長氏は自民党県連幹事長として立場を異にしていた。当時、翁長氏は普天間基地の県内移設推進の急先鋒。議会での大田知事への厳しい追及は、いまも議会関係者の語り草になっているほどだ。
もちろん大田氏が忘れるはずもない。

「えげつない質問ばかりやってたね」
おととしインタビューした際に翁長知事について触れると、大田氏はすぐにこんな感想を漏らした。不愉快そうな表情を浮かべながら。

それでは翁長氏はどうなのか。その後、大田氏と同じ知事になり、しかも同じように、沖縄県民の思いを背負って政府と対立しているのだ。当時とは異なる思い、知事という立場に身を置いて初めて感じたこともあるのではないだろうか。

「翁長さんにとって大田元知事はどんな存在ですか?」
私がそう尋ねると、翁長知事はすぐに答えた。「大田さんは私が自民党県連幹事長をしていた時の、反対側の知事ですから、当時は冷戦構造の名残がある時期ですから、基地問題も含めて大変な議論をさせていただきました」
亡くなった先輩のことを聞かれたのだ。まず大田氏の功績を讃えてもよかったはずだ。しかし最初に口をついて出たのは、大田氏と同じように、対立していたときの記憶だった。ふたりが共にまず思い出すほど、議会でのやりとりは互いの脳裏に焼きついているのだろう。

故大田昌秀・元知事について問われた翁長雄志知事(右)が最初に語ったのは、「対立の記憶」だった=2017年6月22日、沖縄県庁知事第二応接室(BS-TBS「週刊報道LIFE」のインタビューカット。聞き手は松原耕二)
故大田昌秀・元知事について問われた翁長雄志知事(右)が最初に語ったのは、「対立の記憶」だった=2017年6月22日、沖縄県庁知事第二応接室(BS-TBS「週刊報道LIFE」のインタビューカット。聞き手は松原耕二)

 

気がつくと大田知事の言葉を発している

ところが大田知事の時代に実現した普天間返還合意や、当時と今の時代状況の違いなどについてやりとりするなかで、翁長氏はこんな思いを吐露した。

「今、知事になっていろんな出来事が起きたときに、私自身が心の中で思ったり、あるいは外に出ていくときも、大田さんの過去の言葉とよく似ているんですね」
いざ知事になって何か起きたときに思ったり、発したりする言葉が、ふと気づくと対立していたはずの大田知事の言葉に似ているというのだ。

翁長氏が例にあげたのが、少女暴行事件だった。
1995年に起きた少女暴行事件は、その後の普天間返還合意につながっていく。日米政府を動かすほど県民の怒りは激しかった。

そうした状況のなかで開かれた県民大会で、当時の大田知事はこう県民に語りかけた。
「本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことを、心から詫びたい」
このときの大田知事の言葉が、翁長氏の記憶に今も焼き付いているという。

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