沖縄から見つめ直す日本
瀬長亀次郎(1907~2001)。米軍支配からの「民族の解放」を唱えて祖国復帰運動を率いた、沖縄で最も知られる政治家だ。今も親しみを込めて呼ばれる「カメジロー」を知る人々を訪ね、ゆかりの地を歩いた。2月下旬、ちょうど米軍普天間飛行場の県内移設をめぐる県民投票があった頃だ。
那覇市街とその先の東シナ海を一望できる、首里城公園の高台へ。中国語や韓国語も飛び交う観光客でにぎわっていた。明治維新で琉球王国がついえて沖縄県ができた後も城は残ったが、1945年の沖縄戦で一度焼失し、日本復帰20周年の92年に国営公園として復元されている。
不屈の人、瀬長の1952年の首里城跡地でのエピソードは有名だ。米軍統治下での「琉球政府」創立式典に公選の立法院議員の一人として臨んだが、米政府への宣誓の際に起立せず拒否した。
首里城から東へ下ると、モノレールのそばに市立首里中学校がある。日曜のグラウンドに野球少年らの練習の声が響く。1950年9月13日、このグラウンドは瀬長の演説で沸いていた。
「ワシントンを動かせる」
沖縄初の知事公選の候補者演説会。詰めかけた聴衆に、瀬長は壇上から訴えた。
「瀬長ひとりが叫んだなら、50メートル先まで聞こえる。
ここに集まった人たちが声をそろえて叫べば、全那覇市民まで聞こえる。
沖縄の70万人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を越えてワシントン政府を動かすことができる」
瀬長が唱えたのは日本復帰だった。当時は本土ですらまだ連合国軍総司令部(GHQ)、つまり事実上米国の占領下にあったが、その現実は沖縄で最も生々しかった。県民の4人に1人が亡くなった戦闘で米軍に制圧されてから、まだ5年だった。
「アメリカにそんなことを言えるのは瀬長さんだけでした。指笛と拍手が止まなくてね」と、仲松庸全さん(91)は振り返る。その演説会で、首里地区の青年会役員として司会をしていた。
当時の世論調査を、瀬長が51年6月の論文「日本人民と結合せよ」で紹介している。
それによると、沖縄の青年会員約1万人の回答のうち「日本復帰」が84%で、「独立」などを圧倒。瀬長は「沖縄の人民の力が日本人民の力と切断されたままではなしに、力と力が結合するとき民族解放の威力は発揮されるのだ」と述べ、「即時日本復帰!」と結んだ。
沖縄戦の後も土地を奪い、基地を造り続ける米軍。力による「異民族支配」への人々の反発が、瀬長の背を押していた。
ただ、仲松さんには日本復帰熱の高さに戸惑いもあった。その沖縄戦の記憶だ。