平和憲法にかけた思い
旧制中学を卒業する17歳で、激戦地となった摩文仁の丘をさまよった。「今の平和な日本では考えられないことでしょうが」と、そこからほど近い糸満市の自宅で話してくれた。
「雨のような砲弾の中を、首里から何日もかかって摩文仁へ歩きました。壕を転々とした末に、米軍に投降しようとワイシャツで白旗を作って外へ出た。すると別の壕から日本兵が出てきて『非国民』と切りつけてきた。飛び退いて崖を駆け下り、海岸へ逃げました。それが(45年の)7、8月です。沖縄で日本軍の司令官は6月に自決し、組織的戦闘は終わっていたのに」
それでも仲松さんは、敗戦から2年たった47年に施行された新憲法にかけた。主権を手にした「日本国民」の名の下に、「恒久の平和を念願」するとして戦争放棄が掲げられたということを、文部省が作った冊子「あたらしい憲法のはなし」で知った。
「自分たちで新しい日本を作ろうと思った。熱血でしたよ。青年会の活動に一生懸命でした」と、前に触れた初の知事公選での演説会実現に奔走したことを思い返す。仲松さんは瀬長が書記長だった沖縄人民党に入り、瀬長同様に立法院議員になった。
瀬長の思いも仲松さんと似ていた。「日本復帰」では沖縄に米軍基地が残ってしまうではないかという「独立論者」に反論する形で、51年6月の論文「日本人民と結合せよ」にこう書いている。
「彼らは熱い戦争が必然だと見る立場だね。しかし人民が世界の恒久平和の擁護を目指して進軍してみなさい。熱い戦争どころか冷たい戦争も終わりを告げる時期が必ずやってくると確信する。平和擁護の運動を世界の人民とともに力強く推し進めねばならぬ」
そのために、沖縄の日本復帰によって「日本人民と結合」するだけでなく、日本が「全面講和の早期締結」で主権を回復して世界と協調すべきだと訴えた。
だがその3カ月後、瀬長の理想とかけ離れた方向へ日本は動く。
切り離された沖縄
日本は米側陣営とのみ講和条約を調印し、翌年に主権を回復した。その際、沖縄を切り離して米軍統治の継続を認める一方で、本土での米軍駐留も日米安保条約を結ぶことで続けさせた。
米ソ両陣営による「冷たい戦争」が、極東では1950年の朝鮮戦争勃発により「熱い戦争」となっていた。戦後に「国民」が主権者となった日本、厳密に言えば沖縄を除く本土は、安全保障を米国に頼り、経済復興に傾注する選択をした。
主導したのは当時の首相、吉田茂。後に「吉田路線」と呼ばれ、戦後日本政治の「保守本流」と同義になる。
吉田は1957年に敗戦から10年を機に著した回顧録で、沖縄を切り捨てた判断についてこう記している。
「アメリカに領土的野心のないことは明らかで、その管理は専ら極東防衛という戦略上の必要に基づくものであるから、国際情勢の改善に連れて、日本国民及び大多数の沖縄住民の願望が漸時達成される望みが決してないことはないと確信している」(「回想十年 第三巻」、1983年、東京白川書院)
新憲法を持ち、その理念が芽吹くであろう日本への沖縄の復帰を仲松さんは望んだ。それは遠ざかった。沖縄を引き続き支配した米軍は、瀬長や仲松さんの沖縄人民党への弾圧を強めた。
瀬長は屈せず、「民族の解放」を唱えて祖国復帰運動の陣頭に立った。
<以下、【中】に続く>
※藤田さんは朝日新聞社の論考サイト「論座」で、連載「ナショナリズム 日本とは何か」を2019年4月から毎週木曜に掲載しています。この記事は、その「沖縄編」から6月27日、7月4日、11日の掲載分をまとめたものです 。