首里城復元の30年~タスキは引き継がれた

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首里城の運命変えた「琉球処分」

首里城の運命を最初に大きく変えたのは琉球処分(1872~1879年)だ。

明治政府は武力を背景に琉球藩を廃止し、沖縄県を設置。これにより、約450年間にわたる琉球王国は幕を閉じ、旧国王は東京移住を命じられた。琉球王国の政治や文化の中心で国王一家の住まいでもあった首里城は、その後、旧日本軍(熊本鎮台分遣隊)の兵舎として使用された時期もあったが、やがて「空き家」状態になった。

明治末期以降、首里城内に沖縄県社を創設する案が浮上するとともに、荒廃が進んだ正殿の取り壊しが検討されるようになった。1924年にいよいよ取り壊し作業が始まった際、 この動きを止めたのが、東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)たちだ。 伊東らは、正殿の取り壊しが間近に予定されていることを新聞で知り、内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。内務省の「取り壊し中止命令」の電報が沖縄県庁に届き、本格的な取り壊しは寸前で回避された。

当時、文化財保護法は制定されておらず、城は1897年制定の古社寺保存法の対象外だった。このため、伊東たちは正殿の背後に沖縄神社を新たに建て、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算で修復できるよう取りはからった。

その後、正殿は国宝に指定。1929年制定の国宝保存法に基づき国の責任で保全されるようになった。しかし、1945年の沖縄戦で焼失。戦後、58年に守礼門が復元され、86年には国が国営公園整備事業として首里城の復元を決定した。

このとき、奈良文化財研究所所長の職にあった鈴木さんは、木造建築の専門家として再び首里城復元に関与することになった。

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