首里城復元の30年~タスキは引き継がれた

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火災で正殿などが焼失した沖縄の首里城。長年にわたる復元事業にかかわった、日本の木造建築の権威の思いに耳を傾けた。

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1972年の日本復帰を直前に控えた沖縄・首里。琉球大学(当時)の敷地内の一角に掘られた2本のトレンチ(発掘溝)を見守る関係者から歓声が上がった。首里城の中心的建物である正殿跡が確認されたのだ。

「これが、首里城復元を決定づけた瞬間でした」

建築史家で元奈良文化財研究所所長の鈴木嘉吉さん(90、奈良県在住)は、文化庁建造物課の調査官だった当時を、つい昨日のことのように振り返った。

戦後もズタズタに刻まれていた

鈴木さんは首里城復元の可能性を探るため、総理府(当時)の要請で現地調査を担当。沖縄の日本復帰に伴い、県民のシンボル的存在である首里城を何とか復元したい、という沖縄の人たちの願いをサポートする役割を担った。

ただ当時、首里城の敷地は琉球大学のキャンパスとして使用され、高台のエリアには自治体の水道タンクも設置されていた。城跡の面影はなく、「首里城は戦後もズタズタに刻まれていた」ような状態だった、と鈴木さんは述懐する。既に鉄筋コンクリート造の校舎が幾棟も建てられている敷地で、正殿の遺構を確認できるのか、という懸念がぬぐえなかったという。

ところが、たまたま広場になっていた場所を掘ると、運よく遺構が見つかったのだ。

「ごく浅い地層で首尾よく遺構が確認できたのは予想外でした。沖縄の関係者も非常に喜んで、何とか復元したいという希望、機運が一気に高まりました」(鈴木さん)

正殿は焼失によって建て替えられるたび、規模が大きくなっていることなども発掘調査でわかった。鈴木さんはその後、文化庁退職後も約30年間にわたる首里城復元事業にかかわることになる。

首里城の変遷をたどると、琉球・沖縄と日本の関係が鮮やかに浮かぶ。

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