首里城復元の30年~タスキは引き継がれた

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復元には木材調達が困難か

復元に役立ったのは、文化庁が戦前に修復した際の資料だった。ただ、残されていたのは沖縄神社の拝殿として修復した際の図面だったため、建物内部の構造や内装に関してはいっさい不明。正殿の特徴である鮮やかな朱色の塗装の形跡すら残されていなかった。

このため復元に際しては、琉球大学の高良倉吉名誉教授らが資料や考証の収集に尽力。日本各地の木造建築の保存や復元に詳しい鈴木さんも助言した。92年に正殿などが完成した後も、今年2月に首里城全体の整備が完了するまで年2回は沖縄に通い続けた鈴木さんは、首里城の文化的価値についてこう話す。

「日本と中国の文化が混ざり合い、沖縄固有の文化が生まれた、首里城はその象徴と位置付けられます。これは、沖縄だけでなく、人類にとって大事な遺産です」

復元に向けては、木材調達の困難さを指摘する。

戦災で沖縄には巨木がほとんど残っていなかったため、前回の復元時は主に台湾産のヒノキを取り寄せた。ほかに、沖縄の特色を少しでも出したいとの思いから、沖縄で「チャーギ」と呼ばれるイヌマキ科の伝統木材を一部で使用したという。ただ、これも沖縄では調達できなかったため、鹿児島県と宮崎県で探し、沖縄へ運んだ。しかし今では、九州南部でも確保は困難だという。

地元の職人に技術を継承

一方で前回より有利な点もある。

復元のための図面などの資料がそろっていることに加え、建築や彩色を担う職人が沖縄の地元で育っていることだ。復元事業の当初は、宮大工や漆職人を本土から招いていたが、長期にわたる事業の間に地元の職人に技術が継承されているという。

「これは首里城の復元に長い時間をかけてきたおかげかもしれません(笑)。だから今度は、技術的なことは地元の人たちで十分対応できるはず。そこは安心材料です」(鈴木さん)

10月31日朝に首里城焼失のニュース映像をみたとき、鈴木さんは「俺は30年間、何をやってきたんだろう」と落胆したという。だが、未来に宝を残す、タスキをつないだ一人であることは間違いない。

【本稿はAERAオンライン限定記事を一部修正の上、転載しました】

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