首里城再建をめぐる政治力学

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2019年10月31日未明。木造の正殿が燃え上がり、北殿、南殿・番所もろとも全焼。鎮火までの11時間、火は書院・鎖之間、黄金御殿、二階御殿にも広がった。

首里城の再建をめぐり、すでに政治は動き始めている。2022年度から始まる沖縄振興計画や、2022年9月の沖縄知事選にも、首里城の再建問題は必ず関わってくるだろう。今後の再建のあり方を考えるために、本稿では、首里城の過去の復元を振り返ってみたい。

沖縄返還と首里城復元

 日米両政府は1969年、沖縄の施政権を日本へと返還することで合意する。翌70年、沖縄住民の代表が、山中貞則・総理府総務長官に首里城復元を訴えた。山中長官は協力を約束したが、大蔵省は「灰じんに帰して形のないものに予算は付けられない」と渋る。山中は、「総理府の沖縄担当大臣・山中の個人的な予算」として、首里城復元予算を要求。沖縄返還の1972年には、首里城歓会門の復元事業を実現させる。

 首里城の本格的な再建は、1967年から計画が始まった琉球大学の移転によって可能となる(1984年に移転完了)。太平洋戦争末期に沖縄を占領した米軍は1950年、住民親米化政策の一環として、沖縄戦で焼失した首里城跡に琉球大学を設立した。

那覇市や沖縄県が跡地利用計画を検討し、首里城一帯を公園とする案を作り上げていった。返還翌年の1973年には、屋良朝苗・沖縄県知事を会長とする首里城復元期成会が発足。首里城全体の復元を政府に訴える。首里城復元期成会は1981年、国場幸太郎・県商工会議所連合会長を会長とする民間団体となり、20数回にわたって関係省庁への陳情を行った。

自民党も、沖縄振興に関する特別委員会の中においた、「沖縄戦災文化財等復元に関する小委員会」で、首里城復元構想を検討する。1970年に初の沖縄選出の衆議院議員となった、西銘順治も強く働きかけた。西銘は沖縄返還翌年、田中角栄内閣の沖縄開発政務次官に任命されていた。その後、1978年の沖縄知事選で自民党・民社党の推薦を受けて当選。知事として、全額国費での首里城復元を自民党に要請する。

こうして、1982年の第二次沖縄振興計画に、「首里城一帯の歴史的風土を生かしつつ、公園としてふさわしい区域についてその整備を検討する」ことが盛り込まれる。1985年12月には、全額国費での首里城復元の実施計画調査費が認められた。

実は、すでに沖縄に国営海洋博記念公園があることを理由に、大蔵省は「一県に二つの国営公園は例がない」と反発していた。だが、自民党の沖縄戦災文化財復元小委員会の委員長を務める、植木光教・元沖縄開発庁長官は、「国営記念公園があってそれが二つに分かれる。一つは海洋博地区、もう一つは首里城地区にあると考えればよい」と押し切る。

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