首里城再建をめぐる政治力学

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沖縄と本土との一体化

 なぜ自民党は、沖縄からの首里城復元の要望に、これほど積極的に応えたのか。最大の理由は、返還された沖縄の本土との一体化を進める上で、それを支える保守県政の存在を必要としていたからである。自民党議員だった西銘順治が沖縄県知事でなければ、全額国費での首里城復元は実現しなかった。

 西銘県政は、教育や国防の面で政府の方針との一体化を進めた。たとえば、屋良朝苗の革新県政下では日教組や加盟県教組の反対で見送られてきた、学校の「主任制度」を実施している。沖縄は、全国の中で最後に主任制度を実施した県だった。

また、西銘県政は、自衛官募集業務も開始する。沖縄県は1979年までは全国で唯一、自衛官募集業務を拒否していた。その背景にあったのは、沖縄戦の日本軍の記憶である。だが、西銘県政は、県議会で保革逆転が生じた1980年、県警機動隊を出動させるほどの混乱をへて自衛隊募集業務費を可決した。

 西銘県政といえば、国体の開催だろう。1980年1月、「海邦国体」と呼ばれた沖縄国体の開催が決まる(開催は1987年)。このとき問題となったのは、日の丸の掲揚と君が代斉唱、そして式典への天皇の出席であった。

文部省の調査によれば、1985年3月の時点で、沖縄県内の小中学校の式典における日の丸の掲揚率は平均6%台。君が代を斉唱する小中学校はゼロだった。県内の高校に至っては、スポーツ大会や入学式、卒業式には日の丸も君が代も登場しなかった。西銘県政は、県内の学校に対して「日の丸・君が代」を強く指導していく。他方、高齢の昭和天皇は体調を崩して国体出席を中止し、皇太子夫妻が名代として出席した。

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