<対談・佐古忠彦×松原耕二>もう一度、沖縄と向き合う【上】

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筑紫さんは「おとなしい記者」だった

佐古 僕は沖縄に長期滞在した経験はないですが、いつの間にか沖縄は一番多く足を運んだ場所になっています。政治部記者のときも、物事を深く考える原点のような場所として訪ねていました。筑紫さんは、「沖縄に行くと日本がよく見える」とか、「矛盾がいっぱいここに詰まっているんだ」ってよく言ってましたが、その言葉がずっと頭に残っていて、同じものを見たいという思いがありました。
沖縄に行くと、筑紫さんの足跡が残っているんですよね。最後の琉球政府主席だった屋良朝苗さんの日記にまつわる取材をしていて、当時秘書だった大城盛三さんの自宅にうかがったとき、隣りの和室を指しながら、「筑紫さん、ここによく来ていたよ」と言われました。復帰前夜に朝日新聞の特派員として沖縄に赴任していた筑紫さんは、主席秘書のところに夜回りによく行っていた、ということですね。大城さんは、「筑紫さんはおとなしい記者だった」とおっしゃっていました。

松原 「おとなしい記者」というのは、面白いなと思ったんだけど、僕も沖縄で筑紫さんの足跡をたどったとき、みんな言うのは、「筑紫さんは若い頃、いつも隅っこでじっと聞いてた」って。みんながしゃべることもなくなったころに、ボソッと何か言って、それがなかなか面白いから、どんどん話が転がっていくと。みんながしゃべっているとき、じっと聞く人だったイメージがあります。

沖縄が「記者筑紫哲也」をつくった

松原 僕が筑紫さんの足跡をたどるドキュメンタリー番組を作りながら感じたことは、よく筑紫さんは沖縄を大事にするって言うけど、じつは筑紫さんは沖縄のおかげで、本当の意味での記者になれたんじゃないかと。筑紫さんは駆け出し記者の頃、自分は記者に向かないんじゃないかと悩んで、もう辞めようかと思っていたときに沖縄赴任を命じられた。沖縄で初めて記者って面白い仕事だと思えたんだと、ご自身も書いたり話したりされています。筑紫さんの沖縄勤務時代は、記者として青春時代だったような気がするんです。
筑紫さんが沖縄に住んでいたときに家政婦さんをやっていた人で、今は百歳ぐらいになるおばあちゃんがいるんですが、番組でインタビューすると、こう言うんです。
「筑紫さんはね、毎晩なかなか帰って来なくてねえ、奥さん大変だったのよ」って。これを5分に1回ぐらい言うの。ここ番組では使いにくいな、と思って聞いてましたけど(笑)。
でもこれを聞いて、筑紫さんは沖縄に行って、沖縄の文化を愛し、沖縄の人々を愛し、そこで初めて記者の仕事のやりがいを見出し、これで記者としてやっていけるかもみたいな実感をつかんだんじゃないかな。筑紫さんが沖縄を大事にしているのはみんな思っているし、その通りなんだけど、沖縄が「記者筑紫哲也」をつくったんだと、ドキュメンタリーを作りながら思いましたね。

佐古 僕は「NEWS23」を担当していたときは、毎年、復帰記念日や慰霊の日に沖縄の特集や企画をしていたんですが、筑紫さんに「こんなネタ、こんなテーマがあります」って、結構得意げに話していたんですね。筑紫さんは、「ほお、ほお」といつもの感じで相槌打って、じゃあ行ってこいって。
筑紫さんが亡くなってから、こんなとき筑紫さんは何を考えていたんだろう、何を言ったんだろうということを、ものすごく知りたくて、筑紫さんが書いた本を集中的に読みあさったことがあったんです。そうしたら、若造だった僕が得意げに言ったこと、全部書いてあるんですよ。知ってたんだ、そりゃそうだよねって(笑)。筑紫さんも既に取材していたことばかりなんだけど、それを一言も言わない。絶対に若手をがっかりさせないし、全部受け止めて静かに見ているというか、背中を押してくれる人だった。そのとき、はっとさせられたんです。だからこそあんなに自由に番組が作れたんだって。今もって筑紫さんに背中を押されている気がします。

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