2017年8月以降、全国で上映中のドキュメンタリー映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー」を監督した佐古忠彦さん。16年7月に著作「反骨 翁長家三代と沖縄のいま」(朝日新聞出版)を上梓した松原耕二さん。ともにTBSキャスターの二人が、ほぼ同時期に「沖縄」を世に問うた背景には何があるのか。「もう一度、沖縄と向き合う」をテーマに論じてもらった。
チビチリガマ事件の衝撃
松原 さっき(【中】参照)本土の若者たちの話をしたけど、今回チビチリガマの事件(*)がものすごくショックで。あれは最初、思想的な背景のある事件だと思いました。そうしたら地元の少年たちが起こした事件だった。じつはそれで本土メディアのニュースバリューとしては下がっちゃった。でも僕は、より深い衝撃を感じました。思想的な背景が何もなく、地元の子たちがやった、しかもチビチリガマで何があったのか、彼らはほとんど知らなかったとも伝えられている。以前、沖縄で取材した大学の先生の言葉で印象に残っているのは、「最近は沖縄戦や沖縄の歴史をあまり子どもたちに教えないんですよ」と。「本土の冷たさ」みたいなものだけでなく、沖縄内部も変容しつつあるんじゃないかなと思いました。
沖縄へ行くと、「島くとぅば」をしゃべれる人がどんどんいなくなっていて継承運動も盛んだけれど、そんな中、本土の無関心とともに、沖縄社会の中の「歴史の欠如」みたいなものも同時に心配になりました。僕らが心配することじゃないのかもしれないけど…。
ところで来年(18年)は、沖縄では名護市長選も県知選もある、大変な年ですよね。僕も沖縄に行って、何ができるか模索するつもりです。沖縄報道が定型化すると、番組を作るほうもつまらないし、観ているほうはもっとつまらない。そうすると、ますます沖縄報道が減ってくる。だから、いろんな沖縄の描き方をしなければいけない、と思っています。
「内部の基準」で動いていないか
佐古 さっき松原さんも指摘されたように、「沖縄」を取り上げると数字(視聴率)が上がらない(【中】参照)とよく言われますが、「数字論」の捉え方はさまざまだと思います。というのも、作る側が「見せ方」を含めて、観てくれる側の意識を勝手に位置付けたり、決めつけたりしている面もあると思うからです。
自分で言うのもなんですけど、「カメジロー」の映画を観に来てくれる人たち、すなわち沖縄の戦後史をもっと知りたいという人たちが、こんなにもいるんだ(11月8日現在で観客動員数約44000人)と思ったら、テレビでも結構、「愚直なもの」に関心を寄せてもらえるんじゃないかという気がするんです。原点回帰じゃないですが、「直球」を投げても受け止めてくれるんじゃないかと。
語弊があるかもしれませんが、テレビ局内部では今、もっと若い人に番組を観てもらうにはタレントさんを起用すべきだとか、演出をああしろ、こうしろっていう議論が盛んな状況です。でもそれって、誰のための作業なのかなと思ってしまう。ほんとに見てくれる人のことを考えてのことなのかなあと。勝手につくった自分たちの基準の中で、動いていないだろうかと、最近よく考えるんです。