<対談・佐古忠彦×松原耕二>もう一度、沖縄と向き合う【上】

この記事の執筆者

2017年8月以降、全国で上映中のドキュメンタリー映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー」を監督した佐古忠彦さん。16年7月に著作「反骨 翁長家三代と沖縄のいま」(朝日新聞出版)を上梓した松原耕二さん。ともにTBSキャスターの二人が、ほぼ同時期に「沖縄」を世に問うた背景には何があるのか。「もう一度、沖縄と向き合う」をテーマに論じてもらった。

―TBSの入社年次は松原さんが1984年、佐古さんは88年。筑紫哲也さんとの接点も、二人の共通点と言えます。松原さんは、89年に筑紫さんがアンカーを務める「NEWS23」がスタートした際、最若手のディレクターとして番組づくりに参加。佐古さんは96年9月~2006年の9月までの10年間、「NEWS23」のキャスターを担当し、筑紫さんの隣席で番組を担いました。お二人とも本土出身の在京メディア人ですが、沖縄とかかわるきっかけ、原点は何だったんですか。

カメジローとの出会い

佐古 やはり、96年に「NEWS23」を担当したのがきっかけですね。当時、ディレクターがそれぞれテーマを持って沖縄に通っていましたが、私もそうした雰囲気の中で通い始めた一人でした。最初に「つくる」立場で取り組んだのは日米地位協定の特集。96年に大学進学を目指して沖縄で浪人生活を送っていた息子鉄平さんを米兵との交通事故で亡くされた海老原大祐さんに密着取材しました。それから徐々に密度が濃くなっていった、という感じです。

松原 瀬長亀次郎さんについては、その頃から何か頭に焼き付けるきっかけがあったのですか。

佐古 海老原鉄平さんが沖縄に行った理由は、読谷村の彫刻家、金城実氏の弟子になることが夢だったからです。金城さんの作品の中にある「銃剣とブルドーザー」は、まさに銃剣を構える米兵やブルドーザーと向き合う「沖縄の偉人」と民衆を表現している塑像がありますが、工房を訪ねた僕に金城さんは、これが屋良朝苗、これは瀬長亀次郎って、一体一体、解説してくれたんです。それが最初の「カメジロー」との出会いだったかもしれません。

人生の転機に沖縄滞在

松原 僕も「ニュースの森」のキャスター時代に、ちょうど2000年の沖縄サミットがあって首里城前からライブ中継したり、ボートに乗って初めて辺野古沖にも行ったりと、そのあたりから始まっているんですけど、自分の中で明確に沖縄が意識に上ったのは12年です。
この時期、僕はこのままTBSで仕事を続けるべきなのか、ものすごく迷って、長期休暇をもらったんです。そのときに沖縄をこよなく愛している知り合いの好意に甘えて、その人が持っている南城市の住居に1か月以上滞在させてもらった。記者としてではなくて、ひとりの人間として陶芸の工房を回ったり、南部の戦跡をめぐってみたり、あるいは飲みにいったり。毎日、読書や書き物をして過ごしましたが、住居の目の前が海で、遠くに摩文仁の丘も見えました。
それからもう一度長期滞在した12年9月に、オスプレイ配備反対を求める県民大会が開かれて、そのとき「沖縄タイムス」と「琉球新報」を開いたとき、紙面の大部分がオスプレイ関連の記事でした。しかも、「差別」の文字があちこちに並んでいて。そのとき、沖縄の人々はどんな気持ちなんだろうなあと、摩文仁の丘をのぞむ海を眺めながらゆっくり考えました。これまで何度も取材に来ていたし、もちろん同じように思いをめぐらせたことはありました。でも数日滞在しては帰って伝えるという、タッチアンドゴーの取材のときとは何かが違った。沖縄の人の気持ちがわかったとは言いません。でも自分の中に染み入ってくるように感じたのを覚えています。
そのあと、BS-TBSの番組を担当し、10回ぐらい沖縄に通う年もありました。筑紫さんの沖縄での足跡をたどる特番もつくったし、知事選で翁長雄志さんを追いかけたり、「フェンス」というドキュメンタリー番組では沖縄の基地で1週間、朝から晩まで海兵隊員たちを密着取材したりしました。

この記事の執筆者